今城青八坂稲実池上神社(いまきあおやさかいなみいけがみじんじゃ)は、埼玉県児玉郡上里町忍野の利根川支流の烏川沿いにある神社。祭神は伊吹戸主命、豊受姫命の2柱。武蔵国賀美郡の延喜式内「今城青八坂稲実池上神社」の論社、旧社格は県社。
由緒
高度な稲作技術を持った渡来系氏族が、烏川沿岸の忍野に稲作の神「豊受姫命」を守護神として和銅4年(711)に創祀した。[1]
その後、渡来系氏族の衰えにより荒廃し、「今城青八坂稲実池上神社」の社号は失われ「稲荷社」と呼ばれていたが、元弘年間(1331-1334)に新田義貞が金窪城の鬼門除けとして再建した。この時に鬼門除けのため、祓戸四神の一神「伊吹戸主命」が勧請されたと思われる。
延元3年(1338年)に季子義宗が金久保の領主となり、戦勝祈願した。
貞治2年(1363年)に関東管領となった上杉憲顕が金窪の領主となり、応安元年(1368年)に国境の平穏を祈った。[1]
大永4年(1524年)に斎藤盛光が金窪城主となり、新田氏と同様に城の守護神とした。[2]
天正10年(1582年)6月には、武蔵国賀美郡が織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となった。兵火により社殿が焼失した。[1]
天正19年(1590年)1月に金窪の領主となった川窪信俊が、天正19年(1591年)に焼失した社殿を再建、神田が寄進された。川窪信俊は武田信玄の弟「武田信実」の子に当たる。
元禄7年(1694年)に、烏川の氾濫で社殿が流された。流された本殿を引き上げ、高くした基礎上に修繕を加えて再建した。
元禄11年(1698年)に、川窪信俊の孫、武田信貞が丹後国に転領した。
金窪城は廃城となり、当社は衰退していった。[1]
元文3年(1738年)には、地頭から鳥居の再建、供米の奉納があった。
嘉永年間(1848年-1854年)には、地頭から社殿の修繕、神田が寄進された。[1]
明治5年(1872年)には、社名を「稲荷社」から現在の「今城青八坂稲実池上神社」へ復称した。[1]
社格 [1]
合祀
- 歳旦祭(1月2日)
- 祈年祭(3月17日)
- 大祓式(6月30日)
- 斎田祭(7月25日)
- 例大祭(10月17日に近い日曜日)
- 新嘗祭(11月27日に近い日曜日)
- 大祓式(12月29日)
交通
脚注
- ^ a b c d e f g h i 社頭掲示板『第62回伊勢神宮式年遷宮記念 今城青八坂稲実池上神社 御由緒』
- ^ 社頭掲示板『池上神社』(設置者:埼玉県上里町、設置日:昭和61年3月)
- ^ 平成祭データ(発行者:神社本庁、発行日:1995年6月)