久保木 清基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
広島県[1] |
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生年月日 |
(1921-07-31) 1921年7月31日[1] |
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没年月日 |
不詳 |
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身長 体重 |
179 cm 69 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
外野手 |
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プロ入り |
1950年 |
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初出場 |
1950年6月15日 |
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最終出場 |
1950年 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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コーチ歴 |
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久保木 清(くぼき きよし、1921年 - 没年不詳)は、広島県出身のプロ野球選手(外野手)。
経歴
広島商業高から慶應義塾大学に入学。1943年に行われた出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる「最後の早慶戦」)では、故障していたエース・大島信雄に代わって先発投手として登板するが、早稲田打線に打ち崩されて敗れた。戦後に復学すると、1947年には主将を務め[1]、同年春期シーズンでは.375で首位打者となった[2]。
大学卒業後は、社会人野球の山崎産業を経て大昭和製紙でプレーしたのち、1950年シーズン途中に28歳で読売ジャイアンツへ入団[1]。
入団早々、6番・右翼手で先発出場するが結果を残せず、シーズンでは21試合の出場に留まり、打率.167に終わる。以降は出場機会に恵まれず、1953年はコーチ兼任となるが、同年末に退団した[1]。
その後、社会人野球の電電東京と日本鉱業佐賀関に所属した。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 21 (1950年-1951年)
- 9 (1952年)
- 55 (1953年)
脚注
関連項目
外部リンク