フレッド・アボット(Harry Frederick "Fred" Abbott, 1874年10月22日 - 1935年6月11日)は、メジャーリーグベースボールの右投右打の捕手。アメリカ合衆国のオハイオ州出身。
経歴
1891年、当時16歳ながらプロの門をたたいたアボットは、マイナーリーグでプレイを始める。その後は1892年、1893年、1896年は独立リーグに、1895年と、1897年から1902年まではマイナーリーグに所属し、メジャー昇格を目指した。
そして1903年、28歳となっていたアボットはクリーブランド・ナップス(Cleveland Naps)でようやくメジャーデビューを果たす。この年は当時の正捕手、ハリー・ベミスの74試合に次ぐ71試合でマスクを被ったが、捕手として19失策、17個のパスボール(ともにアメリカンリーグ最多)を記録してしまい、また打撃でも打率.235に終わるなど不本意な数字に終わってしまった。
翌1904年はベミスが打率.226と不調に陥ったが、アボットはそれに輪をかけて打てず、打率.169にとどまった。2年振りにマイナーへ降格するなど捕手としての出場も33試合に減少したが、この年は9失策、5パスボールという結果だった。
1905年はフィラデルフィア・フィリーズでプレイ。しかしここでも正捕手のレッド・ドゥーインを超えることは出来ず、主に控えの捕手としてシーズンでは42試合に出場した。この年は34試合でキャッチャーに起用されているが、9失策に対し、パスボールを1個にとどめている。
1905年10月にマイナーリーグのチームへと移籍したアボットは、その後6年間をメジャーの舞台から離れて過ごす。しかし結局再びメジャーでプレイすることはなく、1911年のシーズンを最後に現役を引退した。
1935年6月11日に死亡。カリフォルニア州ノースハリウッド(North Hollywood)のヴァルハラ・メモリアル・パーク(Valhalla Memorial Park)墓地に眠っている。
選手としての特徴
- 前述の通り、エラーやパスボールの数が多い(当時の野球のレベル自体が低かった影響もある)選手ではあったが、盗塁を阻止する能力には長けており、1903年と1904年には50%(ともにリーグ3位)、1905年には46%という盗塁阻止率を記録している。
- 主なポジションはキャッチャーだったが、ファーストとしてもメジャー通算で15試合に出場している。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1903
|
CLE
|
77 |
276 |
255 |
25 |
60 |
11 |
3 |
1 |
80 |
25 |
8 |
- |
9 |
- |
7 |
- |
5 |
25 |
- |
.235 |
.270 |
.314 |
.583
|
1904
|
41 |
141 |
130 |
14 |
22 |
4 |
2 |
0 |
30 |
12 |
2 |
- |
5 |
- |
6 |
- |
0 |
27 |
- |
.169 |
.206 |
.231 |
.437
|
1905
|
PHI
|
42 |
143 |
128 |
9 |
25 |
6 |
1 |
0 |
33 |
12 |
4 |
- |
6 |
- |
6 |
- |
3 |
23 |
- |
.195 |
.248 |
.258 |
.506
|
MLB:3年
|
160 |
560 |
513 |
48 |
107 |
21 |
6 |
1 |
143 |
49 |
14 |
- |
20 |
- |
19 |
- |
8 |
75 |
- |
.209 |
.248 |
.279 |
.527
|
関連項目
外部リンク