セビリャのタイファ・アッバード3世アル=ムウタミド(Abbad III al-Mu'tamid)をはじめとするタイファ諸国の救援要請に応じて、ムラービト朝のアミール、ユースフ・イブン・ターシュフィーンは7千の兵を率いてアンダルシアへ上陸した。サグラハスまで進軍する過程でいたるところからイスラム兵が加わり、最終的には3万までふくれあがった。カスティーリャ王アルフォンソ6世は、6万といわれる兵を率いて戦場に到着した。
一方でムラービト軍の犠牲も少なくはなかった。ダーウード・イブン=アイーサ(Dawud ibn Aysa)は、カスティーリヤ軍の最初の1時間の攻撃で陣営を打ち破られて戦死した。また
バダフォスのタイファ、アル=ムタワッキル・イブン=アル=アフタス(al-Mutawakkil ibn al-Aftas)も死んだ。セビリャのタイファ、アッバード3世アル=ムウタミドは、カスティリヤ軍の先鋒アルバル=ファーニョスによる最初の突撃で怪我を負ったが持ち前の豪胆さでイスラム連合軍を勇気付けた。またコルドバのイマームとして知られていたアブル=アッバース・アフマド・イブン=ルーミーリャ(Abu-l-Abbas Ahmad ibn Rumayla)も戦死者に含まれていた。ユースフは多くの犠牲者に落胆したと語っている。加えて彼の後継者も亡くなったことからモロッコへ帰還せざるを得なかった。そのため、カスティーリヤ側は大敗北にもかかわらず、あまり領土を失わずにすんだのである。