たとえ話をしましょう。
ある報道写真家が、息子と海にスキューバダイビングをしに行きました。息子と父親は海の中で様々なサンゴや魚と戯れていました。息子はサンゴをいじっているうちに怪我をしました。手から血が流れ、その血の匂いをたよりに数匹のサメが寄ってきました。サメは息子におそいかかりました。父親は、息子がサメにおそわれる様子を見て、親として息子を助けるよりも、報道写真家としてスクープ記事を作る事を選び、息子がサメに教われる様子を写真におさめ続けました。息子の内臓はサメに食いちぎられ、肉体がボロボロに破壊されて息子は死にました。報道写真家である父親はことの一部始終を写真に収め新聞社に持ち込みました。新聞社では対応に困り、息子がサメに襲われて内臓を露出させている、その内臓の部分にボカシを入れて新聞に掲載することにしました。それを見たウィキペディアンが、各社の新聞の記事を寄せ集めて記事を作りました。
報道写真家である父親が命をかけて現場で撮った写真は一次情報であり、新聞社がボカシを入れて掲載した写真は二次情報です。ウィキペディアンの作った記事は三次情報なのでしょう。
この場合、一番真実に近いのは報道写真家である父親の取った息子の写真であり、人工的に細工が入った新聞社の報道は、報道写真家の取った写真よりは真実から遠ざかります。現場で撮られたボカシのない写真そのものが一番真実に近く信頼されるべき情報源であるのに、ウィキペディアでは新聞社によりボカシの入れられた写真をさらに加工しないと記事には載せられません。ここで問いたいのは、なぜウィキペディアの情報は一次情報から遠く現場の生々しいありさまをそのまま情報化せず、加工に加工を加えた又聞きの情報で埋め合わせるだけでまったく真実でないのに「信頼される情報源」であることを自負しているか、です。矛盾していませんか?真実でないのに信頼される情報源であるとは何か?です。--吹雪饅頭 2011年3月2日 (水) 06:37 (UTC)
- 例え話の続きをしましょう。
- ぼくは新聞社での記者ですが、ある日ある父親から写真の売り込みを受ました。ぼくはまず所轄の警察に行って、そういう事故が本当にあったことを確認しました。それから、事故現場の周りでいろんな人に聞き込み取材をしました。事故現場は人気の少ない海岸でしたが、少数の目撃者がいて、その人たちの証言から判断して父親の話には嘘がなさそうでした。取材の時には事故のことは既に噂になっており、「私は事故を目撃した」という人が相当人数出てきました。でもよく聞いてみると、その多くは時間や場所が微妙に合わなかったりして信用できないものでした。事故の少し前に少し離れた場所で子供が溺れかける別の事故があったので、その事故の騒ぎと勘違いして「遠くから事故を見ていた」と言っている人もかなりいるようでした。それから取材の過程で「実は自分も事故の写真を取っていた」という人が何人か現れました。ぼくは新聞社の専門家に頼んでそういう写真をすべて分析・検証してもらいました。その結果、写真のほとんどは例の溺れかけた別の少年を撮ったものであることがわかりました。残りの数枚は、一見すると本当にその事故の写真のように見えましたが、専門家が詳しく分析した結果、結局お金目当ての合成写真の類であることが分かりました。ぼくは、取材の結果得られた情報のうち信頼できるものだけを選んで整理し、記事にまとめて翌日の朝刊で発表しました。
- さて、新聞記事が出た後、事故のことは大きな話題になりました。ネット上のブログ等でも「私はサメに食われた子供を見ていた」のような記事がいくつかアップされています(写真付のもあります)。ぼくは、記事を書く過程でいろいろ調査しましたから、そういうブログの記事のほとんどがデタラメだと分かっています。でも、一般の人には「本当の情報」と「勘違い」と「お金目当ての嘘」と、全く区別がつかないだろうなと思います。ぼくら新聞記者の仕事は、そういう玉石混交の情報をいちいち裏取りして、事実だけを正しく伝えることなのです。
- ・・・というような状況だったときに、Wikipediaの記事を書いている人(=一般人)が一次情報を取りにいって、信頼できる記事が書けると思いますか?--Dwy 2011年3月2日 (水) 15:36 (UTC)
- コメント吹雪饅頭さんへ 正確に言えば、一次情報源については、使えるものもあり、使えないものもあるという事です。 使えないものの代表例としては、ツイッター上の発言、匿名で作られた個人のブログ、BBS上の情報です。 これらはウィキペディアで書きたい内容について自分でツイッター等で流して、それをそれを出典にすることがいとも簡単に実現できるので、社会的信用がないのは自明ですが、自作自演を避ける意味で本物であっても一律に禁止されているのです。 ただしブログの情報でも使えるものがあって、個人は個人でも、専門家が個人的に公開しているHP上のその分野の情報ならば、注意は要りますが一次情報源でも使用可能となっています。 ユーチューブの動画も同じです。
- また、写真・動画の一次情報が未加工のまま、信頼できる二次情報で紹介されることもあります。例えばアサヒ.comでニュースに個人が撮影した飛行機の胴体着陸の映像のユーチューブ動画が紹介された場合、二次情報と共にその一次情報を情報源に使うことができます。
- 一次情報については、出所の信用が高いかどうかがカギになってきます。 同じ東京タワー上空に浮かぶUFOの写真にしても、個人が発表したものは使えないけれども、NASAが直接撮影した写真なら使えます(写真を複製して投稿はできませんよ、出典として使えるという意味です)。 このように探せば使える一次情報は豊富にあるのですが、ウィキペディア上での使用方法が制限されていて難しく(実際窮屈です)、慣れないユーザーが扱うと、殆どの場合注意されて除去ということになってしまいます。同じ失敗を繰り返せば投稿ブロックという面白くない事態に発展するでしょう。 ですから吹雪饅頭さんがそれを不快に思われるのであれば、ボカシが入っていようとも推奨されている信頼できる発信元からの二次情報を使用しなくてはいけないという事です。--Gyulfox 2011年3月2日 (水) 20:24 (UTC)
- コメント上記にて、「ツイッター上の発言、匿名で作られた個人のブログ、BBS上の情報」を出典として使えないものの代表例として示されていますが、(匿名で作られた個人のブログは問題外ですが)ツイッター上の発言、BBS上の情報については、公式のツイッターやBBSでの公式の書き込みであれば自主公表された情報源として出典としての要件を満たします(Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト)。但しこの方針に従えば例外として、例えば、批評家Aが小説X作中の登場人物Yは無神論者であると指摘した上でそのことを前提とした作品の批評を、信頼できる情報源となる雑誌にて行った。一方、小説Xの著者Bが本人の公式ツイッターや公式BBS上にて、本人の書き込みと確認できる形式で、批評家Aの批評に対し、登場人物Yは無神論者ではなく不可知論者だと主張した。という場合には、小説Xの著者Bの主張を「信頼できる情報源とはいえない」としてウィキペディア上では無視し、批評家Aの批評のみを出典とし、小説X作中の登場人物Yは無神論者であるとのみ記載することになります。これは、Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイトでは、自主公表された情報源を出典として利用する際、その自主公表された情報源の内容が、信頼できる情報源の内容と矛盾しないことを求めている(「例えば、ストームフロントのウェブサイトは、その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合は、その第三者の情報と矛盾していない限り、ストームフロントについての記事においてストームフロント自身に関する情報源として使用できます。」の部分)ためです。--4行DA 2011年3月3日 (木) 11:25 (UTC)
お二方、ご意見ありがとうございます。なるほど、報道写真家の撮った写真が偽情報である可能性が新聞社の分析で分かったりするかも知れませんね。そして一次情報でも注意深く扱えば記事になりうる場合もあると。私の言いたかったのは、現場の生々しい状況が伝言ゲームでどんどん加工され、真実から遠ざかるのに、遠ければ遠ざかる程記事として適当だと見なされるウィキペディアの現行のルールに疑問点が残るということなのです。情報を加工すればする程人の手によってバイアスがかかり、歪んで行く訳でしょう?これは、しばしばマスコミが「マスゴミ」と言われたり、ウィキペディアが外部から「玉石混淆の素人トリビア集積所」と批判されることと同じ問題だと思います。特にウィキペディアでは、観光案内や土地の情報など無難な記事は問題なく見れますが、政治色が強い記事・・・たとえば天皇の記事や在日の記事になると記事は荒れ、延々論争が終わらず利用者同士で潰しあいまでしているようだし、記事も党派的な内容に偏りがちです。人の手が入るということは主観が入り交じって来るということであり、それは現場のリアリティの重さを矮小化してしまうことでもあるのではないかと思うのです。--吹雪饅頭 2011年3月3日 (木) 09:11 (UTC)
- コメントまず、「現場の生々しい状況」とはなんでしょう? それを伝えるのは、ウィキペディアの役割ではありません。目撃者による記録や当事者の内面の吐露のような個人的なものは別にすれば、報道やドキュメンタリーの仕事であって、百科事典の役割ではありません。そして節のタイトルでは「真実」が自明であるように受け取られているように思いますが、それが果たして「真実」なのかどうかも含めて考えないといけないもの、です。
- 「現場の生々しい状況」として発信されているものが、果たして真実かどうか、その状況を把握する上で必要な周辺情報は了解されているか、という点を検証し、あるいはそれらの上で何らかの主題において重要な部分を抽出しているのが信頼できる二次資料であり、ウィキペディアはこれら複数の二次情報を元に、事物の概略を書くのです。
- 政治色が強い事項であれば、いくらかの偏りは避けられないものとなるでしょうけれど、Wikipedia:中立的な観点に沿って記述することも可能です。相手の立場を受け入れず、自分の立ち位置を相対化できずに、正しいもの、あるいは自分の立っている位置こそが偏っていない場所であるという態度を継続していれば、議論や対話が成立しない。一方の立場が正しい、あるいはそこにリアルがあるのだと信じている人は、自分に都合の良い事実を文脈から切り離して一次資料を根拠として挙げることもあります。その偏りを、少なくとも情報源となる媒体・著者を示すことで、彼らの偏りとして紹介することで、執筆者の主観による偏った記述を防ぐことができます。
- 一次資料に近いものを参照できるように明示することは重要なことです。「現場」的な正しさを読者に案内することもできます。客観的な検証をしている二次資料を確認して記述し、それも併せて情報源として示すことが、理想となるでしょう。比較的情報が整理されている法学分野であれば、判例、評釈・論文、包括的な専門書、それぞれを書く。歴史や文学、自然科学などでは、それが理想でしょうね。--Ks aka 98 2011年3月3日 (木) 12:41 (UTC)
Ks aka 98さんご意見ありがとうございます。二次資料と合わせて載せれば問題ない場合もあるのですね。勉強になりました。
現場の生々しい情報がウィキペディアに反映されない事例としては、例えば医療に置ける臨床の様子や、一線で活躍する大学教授の講義の内容がウィキペディアでは独自研究扱いになったり、歴史についても例えば、何万も殺されたホロコーストの凄惨な様子が、ウィキペディアでしっかり認識されずホロコースト否認などの記事が立っていることです。これらのことに私は幻滅を感じています。臨床の現場や、命がけで報道をしている記者のとった写真や、研究者の地道な活動が、素人集団であるウィキペディアンたちの手にかかるとそれは特定の立場にとって都合のいい見地からの一次資料だ、独自研究だと言われ、方針にそわないなどと切り捨てられ、歪められてしまうのです。しかしながら、ウィキペディアに情報を審査する専門機関がないというのは致命的だと思います。真実を伝えることがドキュメンタリー記者の役割であってウィキペディアの役割ではなく、ウィキペディアは出版された商業的な紙媒体だけを取り扱うというのは、やはり人工的にバイアスのかかった情報しか受け入れないこととイコールになってしまうのではないでしょうか。それははたして信頼できる真実の情報だと言えるのでしょうか。--吹雪饅頭 2011年3月4日 (金) 00:45 (UTC)
- 検証可能性と著作権がらみという事で、ある程度の制限を受けることはどうしようもないですね。 命がけで報道をしている記者さんにその分野での特筆性があれば、彼が公式HPでアップしたものは全て使える一次情報源ですからリンクで紹介可能です。 それから海外国内を問わず、病院のHP上で臨床の現場が公開されていれば、これも使えます。 詳しくはないのですが、ホロコーストの凄惨な様子の写真が著作権切れなら、(権利関係に間違いがないか十分確かめた上で)コモンズに直接投稿して、そのままウィキペディア上で利用可能だったと思います。 ホロコースト否認については、不快であっても検閲できませんから、どうしようもないですね。 ウィキリークスだって信頼のできる一次情報です。 これらのリソースの注意点は、筆者の見解を交えると、独自研究になるのでソースがどういう意味でアップされているのかに沿って紹介しないといけないという制限があるので、思うようには使いにくい材料です。--Gyulfox 2011年3月4日 (金) 03:24 (UTC)
そうなのですか・・・。Gyulfoxさんご意見ありがとうございます。私が疑問なのは、ウィキペディア内部でこれだけ「出典を明記」とか、「検証可能性」なんてことが留意されているのに、外部からは「ウィキペディアは玉石混淆、しょせん素人知識のごった煮」などと批判されるのかなあという所なのです。私がウィキペディアンではない知り合いに指摘されたのは、ウィキペディアが一次情報よりも三次情報を優先するから信用ならないんだということでした。三次情報が信用ならないというのは上に述べた通りです。ウィキペディアでも一次情報を扱う事はあるものの、その多くははねのけられてしまいがちです。Wikipedia:信頼できる情報源 にある一次情報についての記述は、もう少し見直されるべきではないでしょうか?--吹雪饅頭 2011年3月5日 (土) 10:36 (UTC)
- 一次情報を一般的な文脈で信頼できるものだと捉えるのは、よくある誤解と言っていいものだと思いますよ。
- 一次情報ってのは、そこにそう書いてあるのは確か、です。だとしても、それ自体の真偽とか、解釈の妥当性の問題がありますよね。読み解くために、十分な周辺知識や理解がなければ、間違ってしまう。古代史とか、難解な物理学とかを想定してみてもらえればわかりやすいと思います。近代史でも、同時代的な報道などでも同じです。まっとうな専門家は、そういう知識を持ち、先行研究を押さえ、最新の研究動向を押さえているものです。まっとうな専門家であれば、一次資料から直接何かを主張することはないですし、求めれば一般的な見解を示している書籍や論文を引いてくれるはずですし、ウィキペディアではそれこそが専門家に期待されています(WP:NOR)。
- そして、そうした専門家、そうでなくとも、そこそこ信頼できそうな二次情報源を書いていて、それがそこそこ信頼できそうな出版社から刊行されているのならば、その記事に関わる、二次資料を挙げることができず一次資料を元に何かを主張するウィキペディアンよりは、よっぽど信頼できると社会的にはみなされている。
- ぼくたちウィキペディアンは、専門家ではないですから、そうした知識を持つとは限りません。だからこそ、二次資料を確認することが必要になってきます。上で書いた通り、一次資料を加えることはできますよ。一次情報および先行研究を踏まえたうえで書く。
- 「ウィキペディアは玉石混淆」なのは、記事の発展にはムラがあるからです。これは原則的には避けられないけど、加筆依頼などを活用することはできます。「しょせん素人知識のごった煮」ではないですよ。検証可能で、信頼できる情報源を使って書いている記事に関しては「専門家の知識の、素人による再構成」です。ただし、その素人は、その分野については多少の関心を持っているでしょうし、読者と同じ視点で再構成することができるという利点もあります。--Ks aka 98 2011年3月5日 (土) 11:29 (UTC)
- コメント最初の例えに戻れば、1次情報は写真です。 こういうものがただ載ってるだけでは単なる死体ですよね。 ある人は気分が悪くなるだけだし、あるサーファーはサメの恐怖を感じるかもしれないが、猟奇殺人現場と思うかも知れない。 父親のコメントはあくまで身内のもの。 第一息子より写真を優先したというのは不自然だと警察でなくても考えるだろう。 真実は素行の悪い息子をぶっ飛ばしたら死亡してしまって、覆い隠すためにサメに半分食わせて撮影したとか、探偵小説みたいな話になっているのかも知れない。 身内である父親のコメントを信じる人もいるけれど、大多数は検死官の調査結果に基づいた警察の報告を信用するだろう。 警察の発表は二次出典で、テレビの生中継も二次出典。 編集されて出てくる新聞報道は三次出典です。 ベストセラーを狙って三次出典をまとめた何とか猟奇殺人事件ファイルという一般書が出ればこれは四次であっても五次であっても三次出典に分類されます。 一方その猟奇殺人事件ファイルの著者がその道の専門家である場合は、二次出典ということになります。 ウィキペディアでは、二次出典に基づいて書くべきだが、テレビの生中継や警察の発表が公刊されていても、読者にとって今ひとつ検証しにくい場合は、朝日新聞クラスの三次出典でも構わないことになっているし、父親が無実の罪を主張して裁判を起こすか、ネット上で主張していれば、「父親にの証言によれば」と断って、一次出典の掲載だって可能です。 しかし一番望まれる編集姿勢としては、速報性のない総合的見解から書かれた専門家による『猟奇殺人事件ファイル』を出典とすることです。 一次出典はそのような二次出典を添えて掲載可能です。 話を元に戻せば、一次出典だけで構成された百科事典が社会的に信用できるかといえば、そうではないというのは分かって頂いたと思います。
- それが分かって頂いたという前提であれば、。Wikipedia:信頼できる情報源 にある一次情報についての記述は、もう少し見直されるべきではないでしょうか?という吹雪饅頭さんの提案には半分賛成しておきます。 なぜ半分かというと、今のままでも困っていないという点と、下手にルールを変えると、必ず拡大解釈によって好ましくない副作用が発生するからです。--Gyulfox 2011年3月5日 (土) 20:43 (UTC)
ウィキペディアンたちは、みずからの発する情報を信頼できるものと信じているんですねえ。その理由は、二次資料を扱っているからという。たしかに、ウィキペディア内で一次資料だけで辞典を編纂する事ができないという取り決めがある事は理解しましたが、その、「ぼくたちウィキペディアンは専門家じゃないから専門家の二次資料に頼る」という所に、やはり私は疑問を感じるのですよ。例えば、肺がん治療薬の「イレッサ」にまつわる一連の出来事はどうですか。イレッサは一錠八千円もするものの、肺がん治療薬としては「夢の薬」とうたわれていた時期がありました。ところが、重大な副作用があり、飲むと死ぬ事もあるのです。製薬会社は薬の効能について、その死んでしまう副作用のことを殆ど触れずに販売しました。医療機関の専門家たちもその重大な副作用に気づかず、肺がんの当事者たちに飲ませていたのです。それで大変な事が起こりました。イレッサで800人以上もの人が亡くなったのです。遺族が集まり、製薬会社を訴えました。今この件に付いては裁判で和解するように薦められていますが、遺族団体と製薬会社の諍いは終っていません。ここで私が強調したいのは、「薬は飲んだ本人にしかその効果は分からない」ということなのです。製薬会社は効能について不誠実な説明をしたし、医者は副作用を見過ごしていました。病気の当事者の方に真実があり、専門家があてにならない場合もあるのですよ。そういう微妙なケースがある事をみなさんに理解していただきたいのです。--吹雪饅頭 2011年3月6日 (日) 07:28 (UTC)
- ・・・それで、真実であることが絶対に間違いない場合は、例外として自分自身の体験が一次出典になって書き込むのが最も信頼される百貨事典になるだろうという理屈ですね。 もしそうであるなら、吹雪饅頭さんが仰ってるのは、「俺は相撲で倒れたが、何度でも立ち上がってやる、だから負けは認めねぇ」とか、「男女差別は絶対許せない、演技力も自信ある、だから俺は男だが宝塚の舞台に出すべきだ」みたいなお話しになってるんですよ。 物事には成り立ちってものがあって、ノートで頑張ったところでどうにもならないものもあるんですよ。 --Gyulfox 2011年3月6日 (日) 08:32 (UTC)
ちょっと落ち着いてくださいよ。私は屁理屈をこねて人を困らそうとしているのではありませんよ。議論は勝ち負けの場じゃありませんし、「この俺さまを信じやがれバカヤロー」的な意味合いで言ってるのではないんです。「信頼できる情報源とはなにか?」という根源的な問題の話をしているのです。もっと詳しく言えば、「ウィキペディアを含むネットのソースにいまいち信憑性がないのはなぜか?」という話ですよ。個人のブログや掲示板などは便所の落書きだと言われています。厳格なルールをしいているはずのウィキペディアすら現状信頼は勝ち得ていません。逆に、イレッサの例で挙げるように、専門家より素人の方が正確な情報を知っている場合だってあります。専門家でさえ間違う事が多いし、その間違いだらけの専門家の著作を素人であるウィキペディアンが自分の主観で再構成して掲載するという構造は、やはり信頼性を問う上で問題をはらんでしまっているという指摘をしているのです。情報を精査する専門機関を設置するかなにかした方がいいと思います。それか、信頼できる情報源の一次情報から三次情報までの説明をもっと丁寧にした方がいいと思います。--吹雪饅頭 2011年3月6日 (日) 09:20 (UTC)
- > 専門家より素人の方が正確な情報を知っている場合だってあります。専門家でさえ間違う事が多いし、その間違いだらけの専門家の著作
- なのに「情報を精査する専門機関を設置するかなにかした方がいい」?矛盾していることにお気づきになりませんか?
- >「ウィキペディアを含むネットのソースにいまいち信憑性がないのはなぜか?」
- だとすればますます「ノートで頑張ったところでどうにもならない」(Gyulfox氏)。ここは、ウィキペディアで「信頼できる」と定義される情報源は何か、ということを扱う文書です。「ネットのソース」一般では全く以ってないですよ。どこだかよく理解した上で発言されたく。貴殿のやっていることは方針不理解ユーザの典型としてしか他者には映らないでしょう。ここでそんなことを云々するのはそれこそ「板違い」というものです。
- 「専門家の間違い」に関する発言も突っ込みどころだらけだけれど、「板違い」だからそれこそ控えておきます。--201.20.185.250 2011年3月6日 (日) 10:39 (UTC)
なぜいきなり敵意をむき出しにされるのですか?感情的になって喧嘩ごしにならないでください。ここは本文の内容について議論する場所ですからぜんぜん場違いではありませんよ。匿名である編集者の主観が入るウィキペディアの情報が信頼できるものでないというのは事実でしょう?限定的な事実にしか言及していない専門家の論文を総合的に精査する専門機関があったっていいと思いますし。そうじゃないですか?そういう異論を述べている人に対し「方針を理解しろ」と頭ごなしに否定するのは思考停止の態度で建設的なものではありません。--吹雪饅頭 2011年3月6日 (日) 11:01 (UTC)
- コメント 匿名である編集者の主観が多少なりと入るのは、著作権上致し方ない部分もあるでしょう。流石に丸写しはいけませんから。しかし、全くの主観でないこと、記述の根拠(真実であることの根拠、ではありません)が存在することを示すために、ウィキペディアでは出典を明記しなければなりません。
- 例えばAという資料において、aという情報が書かれている、ということを、ある記事で書きます。この場合、記述は「Aという書物では、aと記述されている」あるいは「aである(出典:A)」となります。
- そして、情報aに反する事実bが、Bという資料によって公開されたとします。この場合、情報aは間違いということになります。しかし、「資料Aに情報aが書かれている」ということは事実です。
- そして記事には、情報aに関する記述の直後などに「しかし、資料Bでは、事実bと記述されている」と書かれるでしょう。
- 吹雪饅頭さんが挙げられたイレッサの例でいえば、aは医者や製薬会社の説明、bは患者の証言となります。
- さて、Wikipedia:検証可能性にあるように、ウィキペディアに記述される情報は検証可能であることが大前提となります。イレッサの例でいえば、医者や製薬会社の説明も、患者の証言も、検証可能な事実でなければなりません。なぜなら、検証可能でなければ、当事者以外にとってはそれが事実かどうかわからないからです。
- 検証不可能な情報は、例え事実であってもウィキペディアには記述できません。なぜなら、ウィキペディアは告発サイトではないからです。吹雪饅頭さんが医療機関や製薬会社を告発したいのであれば、ウィキリークスを利用したり、ご自身で報道機関を立ち上げるなりして行なえばよろしいと思います。
- 吹雪饅頭さんは、ウィキペディアが何なのか、まだ理解されていないのだと思います。まずは各方針やWikipedia:免責事項をお読みになってください。ウェブページは星の数ほどあり、その役割もそれぞれです。ウィキペディアの目的や方針を変えるよりも、適切なページで吹雪饅頭さんのやりたいことを行なってみてはいかがでしょう。--Mikouma 2011年3月6日 (日) 11:32 (UTC)
丁寧な説明はありがたいのですが、やはりとどのつまりは「方針を理解しろ」とのお答えのようですね・・・。このノートではどの方もそうおっしゃいます。ウィキペディアの情報の質についてはすでにこういう[1]指摘がなされているのです。ジミー・ウェールズ自身が、「学究にウィキペディアが用いられるべきではない」と言ってしまっているという。また、ウィキペディアという項目を読むと、編集責任も利用者自身が負う訳ではないようです。過去にこんな議論もありましたWikipedia:井戸端/subj/Wikipediaは信頼できる情報源か?。この議論ではウィキペディアは信用できないとはっきり断言している方もいらっしゃいます。私としては、「ウィキペディアの信憑性が疑わしい」という一点を主張できればよいのです。具体的に指摘するならば・・・サメの例え話では一次情報にも価値があると話し、イレッサの例え話では専門家の意見に信憑性が問われる場面もあると話し、またウィキペディアについてのニュースを示してみて、ウィキペディアの抱える問題点とは記事内容に専門性がなく、記事の精査機関がなく、編集責任が利用者にない、という点であり、そこに改善の余地ありだという点を指摘したつもりです。しかし、たまたま今ここに居合わせた利用者の方々はまったく問題だと感じていない様です。長年ウィキペディアに慣れ親しんで来ると、ウィキペディアに対する違和感がなくなるものなんでしょうか。私としてはウィキペディアのルールはかなり特殊なものだと感じています。ウィキペディアを外から見直し、批判点を見いだす事も、ウィキペディア発展のために必要な事ではないでしょうか?。あくまでも外部の目線からウィキペディアを厳しくチェックし、問題点を改善して行くべきだと思います。少なくとも、先に挙げたウィキペディアへの批判はウィキペディアにとって発展的なものでしょう。--吹雪饅頭 2011年3月6日 (日) 14:05 (UTC)
- 各方針・免責事項を熟読された上で、それを否定されるのであれば、やはりウィキペディアは吹雪饅頭さんの求めるものではないのでしょう。私には正直言って、なぜ吹雪饅頭さんがウィキペディアにだけ改善を求めているのかがわかりません。ウィキペディアがウィキと言うシステムを採択している以上、専門家でない人間が編集に関わることも、利用者に編集責任がないことも、完全に覆すことは不可能でしょう。また、企業としての責任が生じる報道機関ですら、偏った見方の記事を公表するような世界で、果たしてどのような形態の精査機関が、基本的にボランティアであるウィキペディアにおいて、万人の満足する査読を行なうというのでしょう。そういったシステムやそれから生じる現実、そしてウィキペディアの原則である方針と、吹雪饅頭さんの主張が相容れないのであれば、吹雪饅頭さんの取るべき行動はラリー・サンガーのCitizendiumに参加するか、Citizendiumに類するような専門家による百科事典プロジェクトを立ち上げることかと存じます。--Mikouma 2011年3月6日 (日) 14:27 (UTC)
- コメント吹雪饅頭さんへ、こちらは敵意むき出しでも、けんか腰でも何でもないのです。 ウィキペディアの正体は百科事典の形式をしているけれども、公刊された学説や主張がどこにあるのかを読者に案内するサービスに過ぎないと思って下さい。従ってまず公刊されなけば1ミリも動けないのです。 ウィキペディアでは、地球の周りを太陽が回っている間違った説が、18世紀のどの本にあるかを示せていれば合格なのです。 修正するためには、間違った学説を消すのでなしに、20世紀の論文を示せば良くて、その二つの説の間にどんな発見や事件があったのかという、学説の歴史が書かれた本を順次紹介すれば完成であって、何が正しいかを決めるのは読者側にあるというサービスの正体をまず受け入れてもらわないと、せっかくの100の提言も「何度も立ち上がる相撲力士理論」「男も宝塚理論」になってしまうということです。--Gyulfox 2011年3月6日 (日) 15:01 (UTC)
みなさんご意見ありがとうございます。思いもよらずたくさんの方に丁寧な回答をいただけて、議論も盛り上がりました。ウィキペディアのルールについて非常に細やかでわかりやすい説明をして下さった方々にお礼を申し上げます。特にMikoumaさんの紹介してくださったラリー・サンガーのCitizendiumは私にとって、とても魅力的でひきつけられるものでした。ここのルールは私にとってとても理想的なものです。このサイトをよく観察してみようと思いました。納得できる回答をいただけて、とても満足しております。それでは失礼します。--吹雪饅頭 2011年3月7日 (月) 11:21 (UTC)
一部誤訳と思われる箇所があったので、より正確な訳に近づけました。確認をお願いします。--Kanbun 2011年3月6日 (日) 19:29 (UTC)
- 草案であろうが、コミュニティーで相談したうえで出来上がってきたルールに関わる記事です。アナタの独断で強引にいじらないように。まず提案し、合意を得てから行動してください。--218.217.115.202 2011年3月6日 (日) 23:29 (UTC)
- 訳が正確になるのは歓迎だけれど、やはり段階が必要だろう。急がば回れです。--Gyulfox 2011年3月7日 (月) 01:28 (UTC)
- コメント修正前の文、原文と照らし合わせて、新しいものに間違いがなく、考慮すべきコンテクストを見落としていないのであれば、間違いを正す分には大胆に修正してよいと思いますよ。間違いが合ったら再度修正をお願いします。--Ks aka 98 2011年3月7日 (月) 02:16 (UTC)
分かりやすい翻訳を目指すのは良いことですが、元の英文のテキストが現在のen:Wikipedia:Reliable Sourcesから消えてしまっていることも考えてみる必要があると思います。
「必ずしも満足すべきではありません」のような腰砕けの言い方が実効性のあるルールになりうるのかちょっと疑問ですし、実際問題として「複数の独立した情報源」が得られる場合は思ったより少ないはずです(「独立した」のところをまじめに考えるなら、「複数の独立した情報源」の基準をクリアできるのはむしろ例外的でしょう)。そういうことを考えて、現行の英語版では「複数の情報源を確認する」の節がなくなっているのだと思います。
どうせ英語版を翻訳するのなら最新版を参照する方が良いのではないでしょうか。--Dwy 2011年3月12日 (土) 12:51 (UTC)
- Dwyさん、情報をありがとうございます。現在のen:Wikipedia:Reliable Sourcesから該当する英文が消えていたのですか。この確認は皆さんの用心深さを信じて確認していなかった点でした。必ずしも最新版である必要はありませんが最新版に近いほうがふさわしいでしょうね。--Sweeper tamonten 2011年3月13日 (日) 02:03 (UTC)
- 該当箇所はenでは分割されています。en:Wikipedia:Reliable sources/Flawsに該当箇所全文が掲載されています。--Kanbun 2011年3月18日 (金) 11:00 (UTC)
- そのページは、ガイドラインの全面書換えが議論された時に一人のWikipedianが「私論」として作った「WP:RSの欠陥リスト」です(現在はその役目を終え「歴史的文書」となっています)。ですから、ガイドラインが分割されたわけではありません。因みに「複数の情報源を確認する(Check multiple sources)」の節については、「確かに素敵だけど、これって実際の問題として本当にできるの?(Certainly nice practice, but is this, practically speaking, ever going to happen?)」というコメントがつけられています。--Dwy 2011年3月18日 (金) 16:12 (UTC)
- 私がここの改訳を問題にしているのはこの節を根拠に強引な解釈をして議論をする人がいたためです。実際問題として複数の独立した情報源を用意するのが難しいというのはその通りですし、削除しても良いかもしれませんね。--Kanbun 2011年3月18日 (金) 19:34 (UTC)
下では和訳についての議論が進行中ですが、どんなに上手に和訳しても、元の英文が必ずしも明確なルールになっていないので、不毛な努力のような気もします。実際に複数の独立した情報源を用意するのはかなり難しく、この節があることによって却って混乱を招くおそれもありますから、「複数の情報源を確認する」の節を削除することを提案します。--Dwy 2011年3月22日 (火) 18:05 (UTC)
- 反対の意見がないようなので、節を削除しました。--Dwy 2011年4月9日 (土) 11:42 (UTC)
Kanbunによる訳文修正の趣旨説明
具体的に改訂前の訳文にはnot necessarilyの解釈やconscious, account, inclusionなどの訳語選択に明らかな誤りがあり、これは重大な誤解を生むと思われます。なので、一度私の修正文に戻し、そのうえで誤りを指摘していただければ幸いと思います。consciousに「同意して」という意味はなく、「認識している」という意味であること、改訂前の訳文はaccountを「根拠」と訳しているが、これは不可算の場合の訳語であり、原文中では可算で用いられているため、「説明」と訳すのが適切であること、inclusionは「包含していること」「包摂していること」「含めること」という意味であり、改訂前の訳文の「引用の仕方」という訳はかなり不適切で、「ウィキペディアに含めること」つまり「ウィキペディアに記載すること」と解釈するのが正しいということを指摘しておきます。以上の解釈に問題点があるとお考えでしょうか。もし解釈に問題点があるというのなら、指摘して修正していただきたく思います。--Kanbun 2011年3月7日 (月) 04:10 (UTC)
- こちらは直訳をする場でもなく、日本語版にあわせて作成してきた経緯があります。まず編集する前にしっかりと提案し、一定期間置いてから編集することが筋というものです。「直訳があってるから大胆に編集すればいい」などとして強行すれば荒れる原因となります。--220.209.151.16 2011年3月7日 (月) 16:32 (UTC)
- 誤訳を抜きにしても、直訳調でわかりにくいのはむしろ改訳前の版だと思いますが、そこはどうでもいいので置きます。段階を踏まなかった今回のKanbunさんの編集は批判されても仕方ないものです。しかし、こうしてKanbunさんがその趣旨を説明し、我々に判断材料を提示した以上、「荒れること」を防ぐためには手続きのことを言い続けるべきではないように思いますが、いかがでしょうか?この議論を建設的な議論にするためには、220.209.151.16さんにも是非、「Kanbunさんの訳が正確かどうか」という方向から意見を出していただきたく思います。--Rasalghul 2011年3月7日 (月) 16:44 (UTC)
- コメント一応ここに差分を示します。これでKanbunさんの事前提示はなされたとして良いでしょう。そろそろ本題に入りましょう。--Gyulfox 2011年3月7日 (月) 20:10 (UTC)
- 「合っていれば手続きはどうでもいい」という行動とそれを後押しする発言に抵抗がありました。現在提案されているようですし、異論が他に無いならば私は抵抗するものではありません。--218.217.121.48 2011年3月9日 (水) 22:59 (UTC)
Kanbunによる原文解説と改訂前の訳文の問題点指摘
では、具体的に原文と改訂前訳、私の訳文を示してその内容について解説を加えたいと思います。自分は今ヨーロッパ旅行中なので、いっぺんに解説する時間はないので、今日はとりあえず「複数の情報源を確認する」について解説を加えます。
複数の情報源を確認する(Check multiple sources)
原文
Because conscious and unconscious biases are not always self-evident, you shouldn't necessarily be satisfied with a single source. Find another one and cross-check. If multiple independent sources agree and they have either no strong reason to be biased, or their biases are at cross purposes, then you may have a reliable account.
However, bear in mind that we only report what reliable publications publish, although of course editors should seek to use the most authoritative sources. In accordance with Wikipedia's No original research policy, we do not add our own opinion.
- 改訂前
- 同意または非同意の先入観は常に自明ではないので、1つだけの情報源では不十分です。違うのを探して照合してください。複数の独立した情報源が合意していて、どちらも先入観の入っていることを示す強い理由がないか、先入観が違う方向を指していれば、信頼できる根拠があるといえます。
しかしながら、わたしたちは、当然編集者はもっとも権威のある情報源を探すべきだとしても、「信頼できる」出版社が出版したものを報告するだけだということを心にとめておいてください。ウィキペディアの方針独自研究は載せないと合致させるため、わたしたちは自身の意見を追加することはできません。
- Kanbun訳
- 意識的あるいは無意識的な偏見というものは常に自明であるとは限らないので、単一の情報源に必ずしも満足すべきではありません。別の情報源を見つけて照合しましょう。複数の独立した情報源が同意しており、それらのどちらにも偏見に基づいているという説得力のある理由がない場合、あるいはそれらの偏見が相互に食い違っている場合は、あなたは信頼できる記述に基づいているとすることができるでしょう。
しかしながら、編集者として当然もっとも権威のある情報源の利用を追求すべきであるとしても、わたしたちは「信頼できる」出版物が公表していることを報告するだけだということを肝に銘じておいて下さい。ウィキペディアの独自研究は載せない方針と合致させるため、わたしたちは自身の意見を加えることはできません。
- 解説(数字は文番号。1.は原文第一文を指す。)
- 1.
- 第一文は一般的なことを述べているのであり、conscious and unconscious biasesというbecause節内の主語は総称的に訳されるべきであろう。したがって「偏見というもの」という総称的な訳語を選択している。conscious and unconsciousという形容詞は偏見に気づいているかどうかという問題を述べているのであり、同意しているかどうかというのを問うているのではない。consciousについてはここを参照のこと。not alwaysは「いつもそうであるとは限らない」という意味である。改訂前訳のように「常に自明ではない」と訳すと、「どんなときも自明ではない」という意味に取られる可能性が出てしまい、誤解の原因となる可能性がある。necessarilyは動詞を修飾して肯定文で「必ず~する」、否定文で「必ずしも~ではない」となる。今回の場合、should not necessarily be satisfiedとなっているので、「必ずしも満足すべきというわけではない」という事になる。改訂前の訳の「不十分です」という訳は原文にある「necessarily」を完全に無視してる。
- 3.
- strongは理由や根拠を表す名詞につく場合は、「説得力のある」「納得できる」という意味である。ここを「強い」と訳すと、意味が明確でないので、誤った解釈が生じる可能性がある。
- 4.
- publicationは「出版社」ではなく「出版物」である。したがって、publishは主語が「出版物」であるから、「出版する」という意味ではなく、「公表する」という意味で訳すべきだろう。また元の訳では出版社となっていることから、会社組織による刊行物でなければ信頼できないのではないかなどという誤った解釈をする可能性がないとも限らない。ここは原文に忠実にいくべきであろう。
以上、複数の情報源を確認する(Check multiple sources)について解説を示しました。誤りがあれば指摘していただきたく思います。--Kanbun 2011年3月8日 (火) 05:02 (UTC)
- 私も該当箇所を訳してみました。
- 意識的および無意識的な偏見ははっきりと分かるものとは限らないので、単独の情報源に必ずしも満足すべきではありません。異なる情報源を探して照合してください。複数の独立した情報源による情報が一致しており、それに偏見があるとのもっともな理由がないなら、あるいはその情報にある偏見に食い違いがあるなら信頼できる根拠を得られるかもしれません。もちろん編集者は最も権威のある情報源の利用を求めるべきですが私たちは「信頼できる」出版物が公表したことを報告するのみであることを忘れないで下さい。ウィキペディアの独自研究は載せない方針に従い、私たちは自分の意見を加えません。--Sweeper tamonten 2011年3月10日 (木) 06:59 (UTC)
- Sweeper tamontenさんへ。accountは不可算で用いられ、主に熟語的に「on this account(このために)」として使われます。原文中のaccountは前に「a」が付いていることから明白なように可算で用いられているので、「根拠」と訳出するのは誤訳です。ここでは「説明」とか「報告」とするのが良いでしょう。私はreportとの兼ね合いから混同を避けるため「説明」の訳語を選びましたが、「報告」と訳してもいまのところ誤解の余地はないように思われますから、そちらでもいいかもしれません。しかし「根拠」は日本語的にも誤解の余地があり(「根拠だけだからそれをそのまま記載するのはよろしくない」など)、まずいでしょう。また「You may」は「You」を主語に取っており、方針文書内で用いられていることを考えると、許可として用いられていると見るべきで、「~かもしれない」と訳すのは適切でなく、「~してよろしい」という意味で、この場合「信頼できる説明or報告と見なしてよろしい」という意味です。それと「bear in mind」を「忘れないで下さい」と訳していますが、まず原文が否定の命令形ではないので、基本的には肯定的に訳すべきという意味でまず問題と思います。さらに、この語は「remember」と比べると意味的に強く、Oxford英英の説明によれば、「何か考えたりするときに大切なことを憶えておくこと」という意味で、訳語としては「心に留める」というのが和英辞典には載っているのですが、「肝に銘じる」という強い訳語が私は適当と思います。最後の文の「we do not add our own opinion.」は直訳するとたしかに「私たちは自分の意見を加えません。」となりますが、私にはこの文脈では「不変の真理」とか「確定的な未来」に近いニュアンスで使っているように思われますから、「私たちが自分の意見を加えることはありません。」とか「私たちが自分の意見を加えることは出来ません。」などといった必然性を強調した表現が日本語的に適当と思います。以上取り急ぎ気づいた点だけ。--Kanbun 2011年3月11日 (金) 04:59 (UTC)
- Kanbunさん、私はこの草案をよりよくして出典情報をつけていただく編集者が増えることで他の編集者の協力が得やすくしたいと考えております。そういった意味で貴方の説明は同じ傾向を持っているものとして歓迎します。さて、-a. 「根拠」は「存在の説明」のようですが、「説明」の利用を示しながらの「根拠」利用の否定に納得できないでいます。 「accountは不可算で用いられ、」とは「根拠の意味のaccountは不可算で用いられ、」との意味でしょうか? -b. 「方針文書内で用いられていることを考えると」との説明がありますが、この部分については貴方の和訳が間違っていると考えています。 -c.「bear in mind」については、「何か考えたりするときに大切なことを憶えておくこと」という意味を考慮したことは貴方と同じです。意識的および無意識的に憶えている状態を平易な言葉で示すなら何がいいかと考えたときに「忘れないでください」が必要十分な言葉であろうと判断しました。「肝に銘じる」ほど「bear in mind」は強いでしょうか? -d. 「we do not add our own opinion.」についても語調をやさしくと考えました。語調についての考え方が違うようですね。私には貴方の和訳は命令調に感じられます。--Sweeper tamonten 2011年3月12日 (土) 01:31 (UTC)
- Sweeper tamontenさんへ。取り急ぎ簡単な返答をば。a.辞書を調べてください。accountがcountableで使われている場合、根拠という訳語はありません。b.文法書を調べてください。根拠もなく間違っていると言われても議論になりません。mayの用法についてはこちらを確認された上で、もう一度検討されますように。「かもしれない」と訳す「may」は主観的判断を表しますから、この方針文書のように客観的な問題を扱っているものにはふさわしくありません。(参照:[2])また「you may」の形では「許可」の用法が圧倒的に多いことも考慮に入れるべきです。c.については『研究社新和英中辞典』([3])やアルクのビデオ([4])でなぜ「肝に銘じる」という訳語になるのかわかると思います。「忘れないでください」という意味はbear in mindの一部を伝えるに過ぎません。d.については「語調をやさしく」というのがわかりません。繰り返しますが、「we do not add our own opinion.」は直訳するとたしかに「私たちは自分の意見を加えません。」となりますが、私にはこの文脈では「不変の真理」とか「確定的な未来」に近いニュアンスで使っているように思われますから、「私たちが自分の意見を加えることはありません。」とか「私たちが自分の意見を加えることは出来ません。」などといった必然性を強調した表現が日本語的に適当と思います。--Kanbun 2011年3月17日 (木) 15:34 (UTC)
- Sweeper tamontenさんはWikipedia‐ノート:合意形成でも意味不明な発言で議論を攪乱し、議論の参加者を疲弊せしめた「実績」の持ち主です。今回の発言を見て何も変わっていないのだと嘆息するばかり。有益な提案を挫折させないためにも、まともに相手にするべきではなく、Wikipedia:コメント依頼等を利用するべきと思われます。--Watchdog daemon 2011年3月18日 (金) 01:09 (UTC)
- コメントお邪魔はしたくないのですが、少なくとも現在表示されている、明らかに誤訳になっている部分だけでも訂正されてはいかがでしょうか? ニュアンスに誤差があるにしろ、Kanbunさんの訳が先だったわけですし、今までのところ致命的な間違いは見つからなかったようですし、異論があるにせよ、より正しいKanbunさん訳に差し替えたあとの方が合理的と思うのですがどうですか。 --Gyulfox 2011年3月18日 (金) 22:10 (UTC)
Kanbunさん、まずaの問題から対応します。ALCのオンライン辞書では「6. 理由、根拠」とあるだけでcountableか否かの情報は無し。Yahooのオンライン辞書のeプログレッシブ英和中辞典では「6 [U][C]理由(reason);根拠(basis);原因(cause)」です。Yahooのオンライン辞書の新グローバル英和辞典では根拠という訳はなし。しかし、「明細>説明」のセクションはすべてcountableです。よって貴方の主張がまだ通りません。理由と根拠の違いで可算・不可算を決め手とすることより、ふたつのニュアンスの違いを論じるべきかと思っています。--Sweeper tamonten 2011年3月20日 (日) 19:53 (UTC)
- コメントなるほど。あなたの使っている辞書がいけなかったのですね。ちゃんとした辞書を参照されるようにお願いします。まず学研『アンカーコズミカ英和辞典』は(C)で「1.記述、報告、報道」、(C)(U)で「2.説明、供述、弁明、申し開き」、(U)で「7.理由、根拠」を挙げます。三省堂『ウィズダム英和辞典』は(C)で「2.報告;話、記述」を挙げ、「理由」の意味は載せずに個別に熟語を示しています。英和では他にも『ジーニアス』が同様です。『マクミラン英英辞典』は(C)で「report」という訳語を挙げており、やはり「理由」の意味は個別に熟語対応しています。『ロングマン現代英英辞典』では「Description」という「記述」に相当する訳語が挙げられており、「理由」の意味はやはり個別で熟語を示しています。つまりaccountがcountableで用いられている場合、「理由」というような抽象的なものを指しているのではなく、具体的な個々の説明記述(『ロングマン現代英英』によれば、a written or spoken description that says what happens in an event or process.)なのです。結局Sweeper tamontenさんは曖昧で不適切な辞書から、自分の都合の良い記述だけを拾ってきてその意味するところを明確にしていないだけでなく、英語の辞書の選び方から考え直す必要があると私は思います。訳語を考えるのに決定的な慎重さがSweeper tamontenさんには欠けています。--Kanbun 2011年3月21日 (月) 12:47 (UTC)
- 『マクミラン英英辞典』でbasisをチェックすると可算です。日本語でも「いくつかの理由(根拠)がある」という言い回しがあります。貴方の主張する可算だから「根拠」と訳すのはおかしいとする説を支持している辞典は『アンカーコズミカ英和辞典』だけです。私は理由や根拠を数えることは行なわれていることと認識しています。しかし、貴方の主張の方法はともかく案として出されている「信頼できる記述」という表現は妥当と考えるに至りました。貴方のコメントの中には「説明」の訳語を選んだとありますがこれはケアレスミスでしょう。この部分については「信頼できる記述」でよろしいかと思いますがどうですか?--Sweeper tamonten 2011年3月21日 (月) 17:37 (UTC)
- 私にはよく意味が分からないのですが、『マクミラン英英』はaccountの訳語に「basis」を挙げていません。あなたの言い方だとたとえば「cup」という単語はcountableだからaccountの説明に使えると言いたいのですか?またcountableで「根拠」という訳を挙げていない英和辞典は『ウィズダム英和辞典』『アンカーコズミカ英和辞典』『ジーニアス英和辞典』です。それとdescriptionの訳語をご存知ですか?「記述、描写、説明」ですよ。「説明」という訳はケアレスミスというのはどうしてそうなるのかわかりません。Sweeper tamonten氏の英語についての知識はあまりにいい加減すぎます。--Kanbun 2011年3月21日 (月) 19:16 (UTC)
- Kanbun訳にある「信頼できる記述」という表現は今でも貴方の主張と考えています。しかし、貴方の2011年3月11日 (金) 04:59 (UTC) のコメントの中に--「根拠」と訳出するのは誤訳です。ここでは「説明」とか「報告」とするのが良いでしょう。私はreportとの兼ね合いから混同を避けるため「説明」の訳語を選びましたが、「報告」と訳してもいまのところ誤解の余地はないように思われますから、そちらでもいいかもしれません。--とあります。「信頼できる記述」という表現だけでなく「信頼できる説明[報告]」なども有効という意味でしょうか?--Sweeper tamonten 2011年3月21日 (月) 20:00 (UTC)
- 言っている意味がよくわかりません。この場合の訳語としては様々有効なのがあるが、文案は以上の通りです。なにをこだわっておられるのですか。あなたはかなり和訳に不慣れなようですから、「根拠」という訳が明らかに誤訳ということだけ分かってもらえれば結構です。--Kanbun 2011年3月21日 (月) 20:04 (UTC)
- 貴方はKanbun訳で「記述」を選んでいながら2011年3月11日 (金) 04:59 (UTC) のコメントの中では「説明」の訳語を選んだと言っていることが矛盾と指摘しただけです。分かり難いですか?--Sweeper tamonten 2011年3月21日 (月) 20:14 (UTC)
- ああ、それはDescriptionの意味だと考えて下さい。ほら、ロングマンはdescription(「記述、説明」)でマクミランはreport(「報告」)を挙げていたと言ったでしょう。矛盾というのは日本語で考えていたからですね。そういう意味で取って下さればわかりますでしょう?--Kanbun 2011年3月21日 (月) 20:19 (UTC)
a.については「信頼できる記述」という表現にすることで合意できたものと考えて次のポイントに移りたいと考えていますがよろしいでしょうか?--Sweeper tamonten 2011年3月22日 (火) 03:38 (UTC)
- 合意というか「根拠」という間違った訳に固執していたのはSweeper tamontenさんのほうですから、私の文案に賛成ならそれでいいです。
- あとちゃんとした辞書を参照すれば済む無駄な議論はしたくないので、以降はせめて『ジーニアス』や『ウィズダム』などの語法に詳しい英和辞典を参照して話して下さい。あなたの英語力はちと不安なので、英英辞典とまでは言いませんから。Yahooのオンライン辞書の新グローバル英和辞典とかYahooのオンライン辞書のeプログレッシブ英和中辞典とかALCのオンライン辞書とか、細かくない不適切な英和辞典を参照するのはやめてほしいです。また大した英語力がないのに辞書の説明を離れて意味不明な論理(例:basisはcountableだからaccountの訳語に出来る)を頭の中で展開するのは辞めて下さい。くれぐれもお願いします。--Kanbun 2011年3月22日 (火) 07:16 (UTC)
- オンライン辞書ならどこがいいですか?--Sweeper tamonten 2011年3月23日 (水) 15:47 (UTC)
- KODかデュアルウィズダム英和辞典がいいんじゃないでしょうか。--Kanbun 2011年3月23日 (水) 16:50 (UTC)
- 確認しました。研究社と三省堂なら使いやすそうですね。--Sweeper tamonten 2011年4月4日 (月) 13:07 (UTC)
b.について。mayについて調べましょう。2011年3月17日 (木) 15:34 (UTC)のコメントでは文法書を調べてくださいとのことでしたので「English Grammar in Use」ISBN 0-521-43680-X で確認しました。まず可能性、次に許可の順です。(pp.58,60)オンラインのマクミラン辞書、ロングマン辞書、オックスフォード辞書は1.可能性, 2.許可の順です。貴方の発言--「you may」の形では「許可」の用法が圧倒的に多いことも考慮に入れるべきです。--には何か根拠がありますか?「you may have」を「・・・と見なしてよろしい」としている例は貴方の使用する辞書にありますか?--Sweeper tamonten 2011年4月7日 (木) 03:16 (UTC)
- 基本的なことですが、例えば安藤貞雄『現代英文法講義』のmayの箇所を開いて、例文(できれば解説もね)を見てみて下さい。それぞれの中での「You may」の用例の数を比べてみれば一目瞭然です。とくにp.281の「正当性を表す」という説明に注目すべきでしょう。念のため他の文法書や辞書でも例文を比べてみるといいと思いますよ。あなたが普通に英語を習っているのなら、ここまでは常識の範囲内だと思いますが、違ったのですか。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 06:47 (UTC)
- 補足として、仮にこの節があなたの主張するように「~かもしれない」と訳す「認識的可能性」の意味であったとすると、その事象が約50%の確率であることを示すことになり、このような場合mayは命題の外にある主観的判断を示すことになります。該当文は方針文書内の地の文であり、何らかの命題を表していると見るのが妥当ですから、このような解釈は大変不自然なこととなります。このような「認識的可能性」のmayの主観性については[5]を挙げてすでに指摘したと思ったのですが、読まれていなかったのですか。ここでは「~と見なしてよい」という意味の「許可」か、「~する場合がある」という意味の「状況的可能性」と見るのが適切で、さらに主語が「you」であることから統計的に見て、特別な理由がない限り「許可」で訳すのが穏当でしょう。あえて「認識的可能性」で訳す根拠が全くありません。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 06:59 (UTC)
- 今までの議論からこれでもわからない場合があるかもしれませんので、もっとわかりやすいように説明すると、もしここを「~かもしれない」という「認識的可能性」であるとするならば、その含意は「方針文書の著者がその事象を約50%の確率で起こりうることだと考えている」ということになります(つまり世の中の半分の人は逆に考える可能性があると言っているも同じ。これでは方針文書として意味がない)。しかし、この文書が不特定多数の共同編集者によって編纂されているウィキペディアの方針文書であることを考慮し、また上記箇所が命題文であることを考慮するならば、「一般的にその事象が起こりうると考えられる」(つまり大多数の人はそう見なすだろう)という意味であるならわかりますが、その場合は「can」を用います。したがって、「認識的可能性」として訳すのは明らかに不適切であり、なぜSweeper tamonten氏がこのような意味不明な解釈にこだわっておられるのか私はさっぱり理解できません。単に知識不足でしょうか。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 07:09 (UTC)
- 結局、「見なす」とすることの根拠はなく、許可であるということも貴方の判断が主体であり、総合すればおかしな日本語訳といえます。なお、第三者に分かりやすいように端的な論証を求めます。--Sweeper tamonten 2011年4月7日 (木) 07:18 (UTC)
- どこをどう読んでそう言ってるのでしょう?本当に手許に文法書はあるのですか?「総合すればおかしな日本語訳」というあなたの主観的判断のほうが大変いかがわしいですね。上記の説明で「~かもしれない」という訳が不適切だということが理解できないのなら、Sweeper tamontenさんはそもそも日本語能力に問題があると言わざるを得ません。こんなことは『ロイヤル英文法』や『ジーニアス英和辞典』の該当箇所を見たってわかるくらい簡単なことですよ?まあトレーニングブックのような「English Grammar in Use」レベルでは載ってないでしょうが。さすがにこれは高校レベルの話題なので、そこから英語をやり直してきた方がよいように思います。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 07:55 (UTC)
- わかっていると思いますが念のため。私はmayを「見なす」という意味に訳すと言っているのではなく、「~してよい」という「許可」もしくは「~の場合もある」という「状況的可能性」(あるいは可能性という)で訳すべきと言っているのですが、その点は大丈夫でしょうか。私はSweeper tamontenさんの「~かもしれない」という「認識的可能性」(あるいは推量という)にしたがった訳文は不適切であるということを指摘しているのです。ただ今読み返してみましたら私の訳文はどちらかというと「許可」よりは「状況的可能性」であると見たほうが良さそうです。これでおわかりになりますでしょうか。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 08:41 (UTC)
- 文脈から「信頼できる記述を所有してよい」という許可はありませんね。「信頼できる記述を所有しているかもしれない」という可能性を表現していると考えるほうが自然でしょう。とにかくmayは許可の意味ではないということで一致したようですね。--Sweeper tamonten 2011年4月7日 (木) 09:50 (UTC)
- 私は許可の意味ではないといってません。その点は一致していません。文法的に考えれば「~かもしれない」と訳す「認識的可能性」の意味では絶対にないと言っているのです。その点を理解して下さい。自身の無理解を棚に上げて、勝手に相手の発言を自分に都合良く解釈するのは辞めて下さい。端的に言えば、私の訳のほうがあなたの訳より文法的にも解釈的にも100倍正しいと言っているのです。おわかりでしょうか。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 11:27 (UTC)
- つまりあなたの「信頼できる根拠を得られるかもしれません。」という訳は「認識的可能性」の意味でmayを理解しているので不適切であり、私の「信頼できる記述に基づいているとすることができるでしょう。」という訳は「許可」の意味でmayを理解しているとも言えるし、「状況的可能性」の意味でmayを理解しているとも言えるが、とにかくあなたの訳より正確にこの場合のmayを理解しているということです。そしてmayの「許可」の用法はしばしばmayの「状況的可能性」の用法と近似し、交換可能であるということ(『現代英文法講義』を参照せよ)を考慮すれば、私の訳はとくにおかしいところはありません。むしろこの場合のmayは「許可」にも「状況的可能性」にも取れると言えます。しかし、「認識的可能性」では絶対にないので(なぜならここでは主観的な内容を言っているのではない)、「~かもしれない」という訳は全く不適切であるということです。--Kanbun 2011年4月7日 (木) 11:41 (UTC)
文法的な解釈としては「~かもしれない」で何の問題もないでしょう。mayを許可の意味に取るとしても、may haveはあくまで「所有してよい」であって「所有していると考えてよい」ではありませんから、Kanbunさんの訳はかなり無理があると思います。(may have a reliable accountに対して「信頼できる記述に基づいていることができるでしょう」という訳はありえるかもしれませんが、「信頼できる記述に基づいているとすることができるでしょう」はちょっと意味が違います)
でも、ここでまず問題にすべきなのはそういう英語の解釈ではありません。そもそも、英語版のルールがそのまま日本語版のルールになるわけではありませんから、翻訳の正確性だけを議論してもあまり意味がありません。ここでまず問題にすべきなのは、ガイドラインとしての実効性がある文章になっているかどうかだと思います。
「複数の情報源を確認する」の節が何を要求しているのかは、Kanbunさんの訳でもあまりはっきりしません。結局のところ「複数の情報源」は常に必要なのか?それとも特定の場合だけに「複数の情報源」が必要なのか?もし後者なら、どういう場合に「複数の情報源」が必要なのか?少なくともこういう疑問にきっちり答えられる文章になっていなければ、ガイドラインとしての実効性は持ち得ないと思います。だから私としては、そういう観点からこの節は削除すべきだという提案をしています。英語の細かいワーディングの解釈を議論する前に、まず、そこのところを考えていただけないでしょうか?--Dwy 2011年4月7日 (木) 17:05 (UTC)
- この方針文書の内容が問題であるという点には完全に同意します(私が改訳を考えたのはそもそもこの節を根拠に意味不明な論理を展開する人と議論する羽目に陥ったせいなので)。私の側はSweeper tamontenさんが日本語訳にこだわられているようなので、答えているまででです。ただ私が思うにここが「~かもしれない」という「認識的可能性」の「may」で解釈されるべきなら、この節は全く意味がない無内容なことを述べていることになります。その場合、この部分が「may well」であれば、まあわかりますが。私はむしろこの節はいらないと思っている派です。あと「信頼できる記述に基づいているとすることができるでしょう」という訳については、「have a reliable account(信頼できる記述を得ている状態である)」をパラフレーズし「信頼できる記述と見なすことができる」と解釈したものです。私は自分の訳文を最初は許可で訳したと思っていたのですが、しかしよく考えてみると「may」は「許可」ではなくむしろ「状況的可能性」で訳していると見たほうが正確でしょう(私は英語で意味を考えてから日本語訳するので、文法的な説明はあとづけなのでご容赦下さいね)。よく考えると「have」は状態動詞なので、「許可」の用法はとりえないでしょう。しかし「~かもしれない」と訳す「認識的可能性」ではないことは確かです。それはすでに説明いたしました。--Kanbun 2011年4月8日 (金) 02:30 (UTC)
- may(~できる)+have(得ている状態である)をどのようにパラフレーズしても「見なすことができる」にはならないと思うのですが、その点をこれ以上ここで議論しても仕方がないですね。とりあえず上の提案に反対の方はいないようなので、「複数の情報源を確認する」節は削除しました。--Dwy 2011年4月9日 (土) 11:42 (UTC)
- 前半部分については根拠を示されておりませんので、おっしゃってることがわかりません。haveは状態動詞であることを考えれば、どうしてパラフレーズできるのか理解されることと思っていたのですが。根拠については私の前記のコメントを見ていただければと思います。「複数の情報源を確認する」節は削除とのことには全く賛成ですので、対応感謝いたします。しかし、Dwyさんは直訳調にこだわるのではなく、英文の意味をとられて考えられるべきと思いますよ。もう少し英文のただ単に表面を追うのではなく、命題文という性格も考慮し方針文書の内容を考えるべきでしょう。誤訳が多いのは大変問題ですね。--Kanbun 2011年4月11日 (月) 17:49 (UTC)
肥大化しすぎて分かりにくいので、
以上の方針をまとめると、信頼できない情報源は個人のウェブサイト、掲示板、Usenet、ブログ、通信用語の基礎知識など、MediaWikiで構築されていないが、中立性に欠ける百科事典・辞典など、MediaWikiで構築されているウェブサイト、反体制勢力・宗教集団・過激派のウェブサイト、企業や組織のウェブサイトなどが該当する。中には注意して使用すれば良いものもあるが、基本的には情報源(出典)としては使用できない。
というように、最後にまとめると良いと思います。--国道559号線 2011年4月18日 (月) 06:22 (UTC)
私は「ガンプラ関連」の記事の編集も行なっていますが、これらの記事において、「模型店における正式発売日以前に発売された雑誌」の情報に基づいた新製品情報の記載が横行しています(主要模型雑誌3誌の書店での発売日は毎月25日となっていますが、模型店では早い場合22日に入荷して、販売されている現実があります。地方で雑誌発売日が遅れる地域の模型店においてもあります)(情報そのものは掲示板などでアップされたりしています)。また、プラモデルの正式発売日前に模型店などのブログにアップされた写真に基づいた情報(商品の通算ナンバーなど)を書き込むケースもあります(具体的な項としては「ハイグレード・ユニバーサルセンチュリー」、「マスターグレード」、「ガンプラの一覧」)。「雑誌の情報そのもの」は「信頼できる情報源」といえるかもしれませんが、「正式発売日以前の掲示板などでのアップ画像」「正式発売日前に模型店などのブログにアップされた写真」は「信頼できる情報源」といえるのでしょうか。この件について意見対立しているIPユーザー氏は「そこそこ信頼できる情報源だと思ってます。どうも考えてません。わたしが議論する気がないだけで、心当たりがないなら好きなだけ不毛な議論ごっこをわたし以外となされれば良いでしょう」との発言(利用者‐会話:210.167.82.156 2011年4月24日 (日) 16:23 における「210.167.82.156」氏の発言を転記)で動きがありません。ここが議論の場として正しいか疑問な気もしますが、ご意見をいただけないでしょうか。--ステイシア・ボーダー 2011年4月24日 (日) 10:46 (UTC)
- コメント 早売りの書籍は検証可能性を満たさない、と定義しているのは「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」や「Wikipedia:最新情報の反映」のガイドラインなので、そちらに持ちかけた方がよい気もします。そもそも、例えばCDの場合であれば新譜がオリコンデイリーチャートにランク入りするのは実際の発売日の一日前ですし、書籍や雑誌の場合、奥付に記されている発行日は発売日の一か月近く先であったりしますので(「Wikipedia:井戸端/subj/発売日と発行日の混用」も参照)、何をもってフライングゲットとするかという問題もあります。実際のところ二、三日程度の早売りは、数日が過ぎれは検証が可能になるものなので、検証可能性か否かという点のみを争点とすれば「不可」とまでは言えないことになるかと思います。
- もちろん、フライングゲットの出版物を出典として認めてしまうと編集合戦を誘発するとか、加筆直後には発売日の遅い地方の執筆者が満足な検証や著作権侵害のチェックを行うことができないとかいったウィキペディアの運営上の問題点はありますし、出版社に対する仁義の問題であるとか、公表権との兼ね合いも懸念されるかもしれません。マナーの問題としては、大いに考慮の余地はあると思います。--Kanohara 2011年4月24日 (日) 12:28 (UTC)
- コメント 早売り雑誌が「いずれ発売されるから」という理由で検証可能性を満たすのなら、雑誌のみならず、他の書籍や映像ソフト、ゲームのその範疇になりますし、また印刷(製造・製作)段階の書籍からも同じ理由で、発売日のはるか前に流出した情報も容認されてしまうことになります。「正式発売日以前の掲示板などでのアップ画像」などは、画像が投稿されているウェブサイト自体(個人サイト、匿名掲示板等)が「信頼できる情報源」ではありません。模型店などのブログも同様です。出典となる書籍自体は、公的に発売日が発表されていますので、それらを元に「その出典は現時点で存在しない」と論破することもできるでしょう。--Mikouma 2011年4月25日 (月) 03:14 (UTC)
- コメント もちろん、原稿がまだ執筆されておらず現実に出版されていない構想段階の書籍であるとか、撮影に関わったスタッフしか確認していない映画やドラマのフィルムなどは、「その情報が入手できる状態になっていない一次資料」に該当するでしょう。不正な手段で公開された、製本段階の書籍も同様です。ただし一般の書店において、実際の発売日より数日前に入手できる状態になっている早売りの書籍などは、「入手できる状態になっていない」とは言えないと考えます。--Kanohara 2011年4月25日 (月) 09:36 (UTC)
- コメント 確かに一部の人間にとっては「入手できる状態になっていないとは言えない」かもしれませんが、出版社的にはアウトでしょう。また、不正入手と早売りの判別方法がない以上、出典は早売り雑誌だと主張したユーザーの編集を容認すれば、不正入手を行なったユーザーの編集も容認しかねないのではないでしょうか? ある程度の線引きは必要かと。--Mikouma 2011年4月25日 (月) 10:47 (UTC)
- コメント それが不正に入手したものなのか、早売りであるのかは、実際にその書店に行って実際に購入してみれば確認できることです。入手できるなら検証可能ですし、販売された事実がないのなら検証不可能ということになるでしょう。--Kanohara 2011年4月25日 (月) 11:39 (UTC)
- コメント 「模型店における正式発売日以前に発売された雑誌」はWikipedia:創作物を基にした逐次的な編集#対象となる行動の(ケースc-2)と同様なのでは、と思うのですが。実際私自身も「模型店で正式発売日以前に模型雑誌を買った経験」はあります。Kanoharaさんは「模型店における正式発売日以前に発売された雑誌」であったなら情報ソースとして認めてもいい、とお考えなのでしょうか。--ステイシア・ボーダー 2011年4月25日 (月) 12:31 (UTC)
- コメント もちろん、ストーリーのある作品の逐次的な加筆を避けたり、不正な手段によって入手した情報を用いて注目を集めようとする者に対しての牽制として、「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」におけるケースc-2のような紳士協定を結んでおくことは有益なことだと思います。ただ、何ら後ろめたい手段を用いることなく、正規の手段で購入したものを「独自研究を避け、検証可能な内容のみを載せる」というルールで処理するのは無理があると考えます。「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」でも、ケースc-2は「誘発する可能性が高い」という言い回しによって禁止されているはずです。
- 私は最初からそう言っているつもりなのですが、早売りの書籍を情報ソースとして認めて良いか否かの可否の根拠はこのガイドラインにはなく、またこのガイドラインで定める範囲でもなく、「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」や「Wikipedia:最新情報の反映」のノートで話し合って取り決めるべき案件だと考えます。個人的には、「早売りの情報を避ける」ことはあくまで紳士協定に過ぎないと考えていますが、紳士協定としては意義のあるルールだと考えています。--Kanohara 2011年4月25日 (月) 19:57 (UTC)
コメント Kanoharaさんのご指摘により、「Wikipedia‐ノート:最新情報の反映#早売りの雑誌などを元にした書き込みについて」に改めて提起いたしました。--ステイシア・ボーダー 2011年4月26日 (火) 13:39 (UTC)
- コメント 「信頼できる情報源とは何か?」というのはまさにこのページで定めていることであり、こちらで議論すべきでしょう。「最新情報の反映」では、本方針を前提とした上でNGとしていたはずです。
- で本題ですが、まず掲示板や模型店などのブログについては「早売りに関係なく信頼できる情報源なのかどうか?」という問題があると思います。状況を存じ上げませんので断言はできませんが、おそらくほとんどがそもそこの時点でWikipedia:信頼できる情報源#オンラインや自己公表された情報源の利用によってアウトではないかなという気がします。
- 発売日前の雑誌に掲載されている情報ついては、公式にはその情報は公表されていない未発表の情報であり一種のリーク情報です。検証可能性及び独自研究を載せいないの双方に明らかに違反していると考えます。また「店にいけばわかる」というのは典型的な独自研究です。「実際に売ってるかどうか」は記事の内容ではありませんので厳密に検証可能性を求める部分ではありませんが、この「店にいけば実際に売ってる」という言ったもの勝ちの根拠のない主張を認めてしまうと「実際にはまだ売っていないものを売っているという虚偽」も認めざるを得ないでしょう。公式な発売日であれば二次資料あるいは公式サイト次回予告などの公式発表によって(雑誌によっては奥付でも)、発売日近くであれば検証は比較的容易ですので、発売日と発行日の混同問題とは別の問題だと考えます。なおやや蛇足になりますが、プロジェクト:漫画では通常書籍には記載されていない発売日を記載する場合には出典を明記することを求めており私も実際に行っていますが、ここ数年のものであればそれほど難しいことではありません。--マクガイア 2011年4月27日 (水) 12:26 (UTC)
- コメント 掲示板にアップロードされたものについては、意図的な誤情報を流すために偽造されたもの(コラ#ネット用語)である可能性などを疑ってかかる必要がありますが、これはマクガイアさんも言うように、早売りだから許されるとか許されないとかいった問題とは無関係かと思います。それが本物の情報であるかどうかは、ネット上の画像ではなく原典を当たることが原則ですし、仮に真偽の定かではない掲示板の情報を鵜呑みにした編集があったとしても、出典が明記されていればその文献を当たることで検証が可能です。
- 早売りについて。これは「実際に売ってるかどうかは記事の内容ではなく厳密に検証可能性を求める部分ではない」とマクガイアさんが認めている通りだと思うのですが、もし「正規の発売日前に書籍を販売する行為」が実在している出典が必要だと言うのでしたら、「フライングゲット」の記事に出典として貼ってあるニュース記事の最後の一文をご覧ください。そもそも、こうしたことに厳密な検証可能性が必要となるのなら、実際に発売日を過ぎた書籍についても、その書籍が実際に発売されていることを証明する出典や、その証明となる出典が信頼できる情報源であることを証明する出典(例えば公式サイトが本物の公式サイトであることを示す出典など)が必要であることになってしまうため、不毛な論に思えます。では「○○書店では正規の発売前に書籍を販売している」ことを証明する信頼できる情報源が存在しているなら、その出典は使ってもいいのかという問題にもなります。
- そもそも本ガイドラインの上位に当たる方針「Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」」には、なぜ検証可能ではない真実を書いてはいけないのかという理由が書いてありますが、こうしたルールの精神に照らし合わせると、実際に販売されていて入手できる状態になっている資料を使ってはいけないという理屈は成り立たないように思います。もちろん下位のガイドラインで「満足な検証は可能だけれど、数日経てば全国の書店で売られる情報を確認するためだけに神田神保町まで行くのは労力がかかるので、皆の負担を減らすために正規の発売日まで待つようにしよう」という紳士協定を結ぶことは有益だと思いますが、これを「神保町まで行かなければ検証できない内容は検証可能性を満たさない」としてしまうと、「じゃあ国会図書館にでも行かなければ読めないような古い書籍も検証可能性を満たさないのではないか?」という屁理屈も成り立ってしまい、具合が悪いように思えます。私にはやはり、発売日の尊重はあくまで紳士協定であって、このノートで話し合う内容ではないと考えます。--Kanohara 2011年4月27日 (水) 13:41 (UTC)
- コメント Kanoharaさんの発言が、「Wikipedia:最新情報の反映#速報的な編集には出典を」にある「正規の発売日よりも前に入手(いわゆるフライングゲット)した資料は検証可能性を満たしませんので、出典とすることはできません」も(現状では草案ですが)も見直す方がいい、とお考えの様に思えるのは、私の考えすぎでしょうか。--ステイシア・ボーダー 2011年4月27日 (水) 16:24 (UTC)
- コメント 四度繰り返しますが、私としては、正規の発売日を基準にすることで、性急な編集を牽制すること自体は有益だと考えており、別にフライングゲットの情報を解禁せよと主張しているつもりはありません。ただ、ルールの精神に沿わない運用が、ルールの拡大解釈を誘発することに対する懸念は感じています。「発売日前の書誌を出典とすることを抑制する」という結論ありきで、現実に検証可能な情報を幽霊のように扱うのは、筋が通らないのではないかと考えます。--Kanohara 2011年4月27日 (水) 17:10 (UTC)
- コメント 当方としても今回の件は「正規の発売日よりも前に入手した雑誌・書籍などの文献は出典とすることを抑制する」のみに関して主張しており、それ以上のことを発言してはいません。「じゃあ国会図書館にでも行かなければ読めないような古い書籍も検証可能性を満たさないのではないか?」ということは今回の件とは別問題です。そのことは別の場所に発言・議論の所を設けていただけないでしょうか。--ステイシア・ボーダー 2011年4月27日 (水) 17:57 (UTC)
- コメント 早売りで入手した情報を出典に用いることを抑制することは結構だと思うのですが、そのルールが正当であることのお墨付きを、情報源の信頼性や検証可能性の有無に求めることには反対ということです。あくまで「不適切な編集を誘発するので自重する」という運用であるべきで、ルールの拡大解釈に歯止めがかからなくなるような運用法は、かえってルールの正当性を失わせることに繋がると考えます。--Kanohara 2011年4月28日 (木) 00:24 (UTC)
コメント Kanoharaさんは、この議論はここでやるような議論ではない、と主張なさっていますが、マクガイアさんは「Wikipedia‐ノート:最新情報の反映#早売りの雑誌などを元にした書き込みについて」において、この議論はこちらでやるような議論なのでは、と主張なさっています。
お二方のご意見が対立なさっているようですので、相手方とご意見の交換をなさってはいかがでしょうか。--ステイシア・ボーダー 2011年4月28日 (木) 11:23 (UTC)
- コメント 拡大解釈でもなんでもなく、普通に基本方針を理解できていれば導き出されることです。
- 検証可能性には、どこの馬の骨かわからない奴のいうことは信用できないからあくまでソースに基づいて、という面がありますので「厳密に検証可能性を求める部分ではない」とはいえども、検証可能であることは必要です。基本的に「実際に売っている」というのは「読めばわかる」だの「やればわかる」だの「肌で知っている」だのと同レベルで取り合うまでもないものでしょう。ニュースは拝見しましたが、どこで売ってるかもどの雑誌が売っているかもいつから売られているかも明示されておらず確認しようがありませんね。国会図書館にある本についてはOPACを使えばネットからでも簡単に実在が確認できますし、全てではありませんが中身を確認しようと思えば近くの図書館への取り寄せやコピーを送ってもらうこともできます。なぜ、同列に扱えると思えるのかが、私には全く理解できません。
- ステイシア・ボーダーさんには申し訳ございませんが、反対だから反対という意見に対しいくら議論を重ねても有意義なものになるとは思えず、正直こんな議論で時間を無駄に消費したくありません。気が向けばあと1・2回位はコメントするかもしれませんが、継続して議論に参加するつもりはありません。--マクガイア 2011年5月2日 (月) 11:58 (UTC)
- コメント 一歩譲って「建前上、まだ販売されていないことになっている書籍の早売りが存在しているかどうか」を信頼できる情報源によって検証することができないと仮定しても、その検証作業とは無関係に、早売りの書店へ行き、(実際に売られていれば)その内容にアクセスすることは可能です。その気になれば国会図書館にある書籍の中身を確認できるのと同様、誰でも新幹線で神保町まで行って早売りを購入し、内容を確認することは可能です。その情報が実際に書店という公の場で、ウィキペディアの編集に携わる誰もが合法的に入手できる状態になっているのであれば、それは「発売日という建前」とは無関係に内容の検証が可能であることを意味しているのではないでしょうか。早売りの書店で偽物の書籍を掴まされたりすることは通常ありえません。その書籍をどのような手段で入手したかについては検証不可能だとしても、内容についてはそれと無関係に信頼でき、検証可能であると考えます。--Kanohara 2011年5月2日 (月) 13:51 (UTC)
- (コメント)検証可能性は、あくまでも「投稿しようとする記述」に裏づけを求めているだけで、「どのような手段で入手したか」つまり、「検証の困難性」を問題視していません。また、この文書では、『「投稿しようとする記述」の元となる記述』は『信頼できる審査を受けていること』が望ましいとしているだけで、やはり「検証可能の困難性」を問題視していません。とすれば、Kanoharaさんの言われているとおり、この場所で論じる意味はないでしょう。
- ついでなんで井戸端で類似の案件をあさってみました。タグの検証可能性や絶版、国会図書館などにこの手の話題があります。
- ちょっとずれるけどこんなものも。
- むしろ、方針(Category:ウィキペディアの方針に含まれる文書)からどうして入手の困難性が問題となるのかポインタで示していただきたいと思います。--Kodai99 2011年5月2日 (月) 14:22 (UTC)
- コメント「検証の困難性」などということは全く申し上げておりませんし、全く無関係です。公式にはまだ未発表のリーク情報であるため検証可能性を満たさず、そのリーク情報の入手方法として「公式発売日前に売っていた」ということをどこの馬の骨ともわからない人物が主張していたところで、信じる理由がないというだけです。未発表の情報を出典とすることは、Wikipedia:独自研究は載せないやWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんの観点からも多いに問題があります。--マクガイア 2011年5月7日 (土) 13:36 (UTC)
- (コメント)いかに述べる2点を以って同意できません。今回問題になっているのは、「確実に販売される書籍類でかつ販売日より前に入手した書籍類を出典とした記述の出典は信頼できるか否か。」です。まず、発行日≠販売日であることから、書籍本体にある発行日は販売日とは異なります。また、公式発売日自体もおおよそ同一の日付にはなっているものの、世界中で同一とは限りません(ここは日本語版で日本版ではないのですよ!)。その場合、一体何をもって「公式発売日より前に入手した」といえるのかが問題になります。マクガイアさんが入手できる日が発売日なのですか?違いますよね?では、どの日でしょう?(念のため。奥付の日付は発行日で発売日よりも後になっていることなんてざらですし、少年誌のように12月号を11月に売っていることもあります。)何を念頭におかれているのかわかりませんが、日本国内でしか販売されていないような書籍類だけしか見ていないのではないかと感じます。それが第1点。次に、発売と同時に記載しようとするお馬鹿な執筆者の問題と出典の信頼性は同一視して語るべき問題ではありません。出典の信頼性は、執筆者ではなく、その出典自体に求める必要があるからです。これが第2点です。上でKanoharaさんも述べられているとおり、紳士協定として販売から数日おくことを求めるのは問題ないとは思います。ですが、信頼できるか否かという点では、それは違うといえます。--Kodai99 2011年5月7日 (土) 14:46 (UTC)
- コメント 定期的に刊行されている雑誌なら、前号に発売日が書いてあるでしょう。先日のような震災の影響で多少遅延することはあっても、前号に書かれている発売日より前に発売することは、まずあり得ません。定期刊行されていない雑誌や書籍なども、出版社を同じくする雑誌や、出版社のサイトなどで確認できます。それでは駄目なのでしょうか?--Mikouma 2011年5月7日 (土) 15:41 (UTC)
- コメント いつ私が「私が入手できる日」なんてこと申しましたでしょうか? 「世界中で同一とは限らない」というお話もそうですが、「『検証の困難性』は本件とは全く無関係だ」と申し上げているにも関わらずなぜそのようなご返答がくるのかが私にはよくわかりません。再度繰り返しますが「検証の困難性」は本件とは全く無関係です。その観点から検証可能性を満たさないという主張を私はしておりませんので、反論される場合にもその観点はご遠慮願います。
- 公式発売日についてはMikoumaさんのおっしゃっている場合の他、出版社や雑誌の公式サイトがあれば多くの場合は確認できます(ちなみに、最近は雑誌の奥付に発売日が記載されていることも増えています)。--マクガイア 2011年5月7日 (土) 16:04 (UTC)
- (コメント)今本当にイラっとしました。理解できないのは理解しようとしないからではないですか。簡潔に書きます。公式発売日を公式サイトの「予定」とされる日にするのは結構だが、実際に売るのは書店なので、書店ごとに異なることはありうる。したがって公式サイトの予定日が発売日と同じであるとは限らない。以上のことから発売日を前提とする話は検討に値しない。
- 個々の出典の信頼性は執筆者や入手手段によらない。なので、信頼性のページでやることではない。このノートではないどこか違う場所でやってくれ。--Kodai99 2011年5月7日 (土) 16:27 (UTC)
コメント 書籍の発売日と実際に入手可能になるタイミングに関しては、Kodai99 氏の意見通り単に流通の問題だと思います。情報源としての信頼性とは無関係です。掲示板やブログ等に掲載された情報がダメ、という点については、争いが無いと思うので触れません。- NEON 2011年5月7日 (土) 16:49 (UTC)
- コメント Kanoharaさんのご指摘により、「Wikipedia‐ノート:最新情報の反映#早売りの雑誌などを元にした書き込みについて」という場を設けましたが、あちらでの動きがないので、こちらに書き込みいたします。
- この件を言い出した者としてお尋ねしたいのは、「正式発売日以前に入手した雑誌を情報源として編集を行なう行為そのものが許されるのか否か」ということです。上でも書きましたが、主要模型雑誌3誌の書店での発売日は毎月25日となっています(雑誌にも発売日は25日と明記してあります)が、模型店では早い場合22日に入荷して、販売されている現実があります。私自身もしようとすれば、22日に模型店に行って模型雑誌を買って、それを元に編集することは可能です。その行為が許されるのか否かです。Wikipedia:最新情報の反映#速報的な編集には出典をに「正規の発売日よりも前に入手(いわゆるフライングゲット)した資料は検証可能性を満たしませんので、出典とすることはできません」とあります。--ステイシア・ボーダー 2011年5月8日 (日) 01:10 (UTC)
- コメント Wikipedia:最新情報の反映 のその箇所は誰がどういう合意の下に書いたのか知りませんが、私から見ればそちらが間違っています。理由は前述の通りです。- NEON 2011年5月8日 (日) 03:17 (UTC)
- 情報 それは「Wikipedia:最新情報の反映」の履歴から初版の内容を見れば明らかなように、この議論にも参加しているマクガイアさんが執筆した個所ですね。この初版は「Wikipedia:性急な編集をしない 2009年7月2日 (木) 19:35 (UTC) を元に作成」されたことになっていますが、該当の版にはそのような一文がなく、「検証可能性を満たさない可能性が高い」といった言い回しで言及されているのみとなっています。これは初版でも同様です。マクガイアさんの「検証可能性」の解釈については、このノートで十分な説明が行われていると思いますし、個人的には「Wikipedia:最新情報の反映」で定めた独自ルールとして、「編集合戦を抑制するために、こうしたものを検証可能性を満たさないものと見なして自粛する」という紳士協定を作るのは有益だと思っていたのですが、個人的にはマクガイアさんの検証可能性に関する解釈には賛同できない部分があるのは以前述べた通りです。
- 過去の議論では「Wikipedia‐ノート:性急な編集をしない/Archive02#フライングゲットの規制について」において、「可能性がある」という個所を除去し、フライングゲットを元にした加筆をウィキペディアの公式な方針に反したものと位置づけて厳しく取り締まろうという動きもあったようですし(差し戻されましたが)、当時のウィキペディアには「ウィキペディアはニュース・ニュース速報の場所ではありません」という公式な方針も存在していました。ただしその後「Wikipedia:保護の方針/仮運用」がさまざまな問題点が明らかになって廃案となり、ウィキペディアにおけるルールが色々と改定されていることなど、ガイドラインの根拠となる基盤が変化している点は念頭に置くべきかと思います。--Kanohara 2011年5月8日 (日) 04:28 (UTC)
- 常識的に考えて、「フライングゲットした資料は検証性を満たさないので、使えません。」ではなくて、「検証性が満たすために、正式な発売日以降まで待たなければいけません。」でしょう。現案はフライング販売が普通である週刊誌を一律に使えないと誤解させかねない説明文ですね。--Dictionwolf 2011年5月8日 (日) 04:36 (UTC)
- コメント 恐らくマクガイアさんの主張としては、「発売日前にフライングゲットした資料は、その時点では存在していないはずの情報であり、実際に購入できたとしても使うことができません」という意図なのではないかと思うのですが、ルールの解釈はどうあれ、一般的に流通するより前に早売りされた書誌を出典として用いることを積極的に肯定する意見はなさそうですので、Dictionwolfさんが提示したような方向性での修正には賛成です。
- もちろん、標準名前空間の記事に早売りが行われた事実自体、例えば「○○書店では発売日より○日前に早売りを販売し、その内容がネットに転載されて祭りになった」といった内容を、信頼できる二次情報源を示さず一次情報源だけを元にして書くことは、検証可能性を満たさないと考えますが、そういった事柄については争いがないと把握しています。--Kanohara 2011年5月9日 (月) 03:45 (UTC)
- コメント Wikipedia:最新情報の反映の当該箇所については、そのような方向の文章への改定が良いと思います。「早売り」という流通の問題[6]がある以上、善意・悪意いずれのフライングゲッターからも理解を得やすい文章にする必要があると思います。- NEON 2011年5月17日 (火) 00:28 (UTC)
コメント
>> Kodai99さん
いらつかせてしまったのでしたらそれは申し訳ございませんでした。しかし、「検証の困難性」(=入手できるかどうか)の問題は私もMikoumaさんも主張していませんよね。少なくとも私は、最初からそのような観点はそもそも持ち合わせていませんでした(もし私の発言で「検証の困難性」を問題としている箇所があるのでしたら引用願います)。にも関わらず私が全く問題とせず主張もしていない「検証の困難性」対する反論ばかりをおっしゃるので、何故そのような反論がくるのかよくわからないのですよ。
私の主張を整理すれば、
- 建前上ではあってもこの世にまだ公表されていないことになっているのだから、リーク情報であり検証可能性は満たさない。
- 「公表予定日よりも前に販売されていた」というどこの馬の骨ともわからない人物の主張を、信じる理由がない。
という2点が主なところです。
なおWikipedia:最新情報の反映の改定についてはそれこそ、この場ではなくあちらのノートでやるべきことだと思います。--マクガイア 2011年5月11日 (水) 13:18 (UTC)
- 「早売り」という言葉を使うこと自体、時間軸の問題であること(いずれ普通に入手可能な情報になること)が前提の議論なのですから、リーク情報とは違います。2番は信じなくても構いませんが、この議論はそういう「現実がある」ものとして提起されていますから、今それを主張すると周囲と噛み合わなくなります。- NEON 2011年5月11日 (水) 13:45 (UTC)
- Mikoumaさんが既に4月25日の発言でおっしゃっているように「いずれ発売されるから」というのは理由とならないと考えます。「現実がある」ということを前提とすることがそもそも間違いだと申し上げています。--マクガイア 2011年5月16日 (月) 10:43 (UTC)
厳密に言えば、ここでの件とは違いますが、ここのようなサイトは「信頼できる情報源」といえるのでしょうか。「ガンプラ関連」の記事で12日から15日に開催の静岡ホビーショーでの情報(12日・13日は業者限定日)によっての編集が行なわれていましたので。 --以上の署名のないコメントは、ステイシア・ボーダー(会話・投稿記録)さんが 2011年5月12日 (木) 15:04 (UTC) に投稿したものです(長月みどりによる付記)。
- コメント 「GA Graphic」はソフトバンククリエイティブが運営するニュースサイトであって、個人のウェブサイトなどとは異なるのですから、何ら問題ないと思うのですが。東京ゲームショウなどでも、ビジネスデーの様子はテレビのニュース番組などで取り上げられることがありますが、そうしたイベントに関しては信頼できる情報源で報道が行われていても、一般公開日まで待つべきかということでしょうか?--Kanohara 2011年5月12日 (木) 15:22 (UTC)
- コメント 現在「ノート:ガンプラの一覧#ローカルルールの制定の提案」において、「ハイグレード・ユニバーサルセンチュリー」、「マスターグレード」、「ガンプラの一覧」、「パーフェクトグレード」、「アクションベース」に対してのローカルルールの制定の提案を行なっているのですが、「GA Graphic」が「信頼できる情報源」ならば、これを元に(一般公開日まで待たなくても)編集してもいいのでは、と考えています。ローカルルール案では「情報源を記載する」という前提ではありますが。--ステイシア・ボーダー 2011年5月12日 (木) 15:32 (UTC)
- コメント 「GA Graphic」は信頼できる情報源だと思います。展覧会やショーの招待日のように情報の開示に時間差がある場合でも、そのような機関を介して報道されていれば、一般公開まで待たせる必要は無いでしょう。
- ところで、もしこのようなサイトにおける一般への情報提供が無い状態で、(入場者が制限されている)先行公開で得た資料を元に記述がなされた場合、どうしようと考えていますか。- NEON 2011年5月17日 (火) 00:28 (UTC)
- コメント 「『(入場者が制限されている)先行公開で得た資料』を元に『信頼できる情報源と見なせるサイト』に書かれている」情報でしたらいいのではと思います。--ステイシア・ボーダー 2011年5月23日 (月) 11:17 (UTC)
草案だということでしっかり読み込んだことがなかったのですが、ちょっと機会がありまして読み込むことがあったのですが、めちゃくちゃな論旨でびっくりしました。明らかに矛盾した命題の定言的宣言である「もっとも信頼できるのは..教科書(であり)」「その科目について幅広く権威のある知識を持っている(と)・・期待(できるからだ)」「しかし「高校や中学校の教科書は・・政治的な認可に従っている(ので信頼できない・採用できない※)」などと記述されており、 ※部分の趣旨は、外部の、現実の教科書採択運動やらそれに対する糾弾活動といった闘争をWikipediaに持ち込もうとし、なおかつ「中・高教科書は出典能力がない」と根拠なく断定しようとしています。たとえば小学校教科書が信用できて中高教科書が信用するに保留しなければならない理由はまったくハッキリしない。日本政府が検定した小中高教科書は信用するに保留しなければならない一方で学術誌で公表された論文が信用されるという根拠がはっきりしない。そもそも「偽の権威」というところの「偽である」「真である」と認定するのがWikipedianであるのであるから、このような基準はまったく中立性に違反したトンデモない基準導入提案であって、内容に関するWikipedia三大ルールに完全に違反している。Wikipediaは内容についてその真偽を独自に判断することを極力回避するスタンスを保持することによって、情報を整理・提示する貢献をおこなう場所であろう。--大和屋敷 2011年4月28日 (木) 15:43 (UTC)
- つぎのように修正することを提案します。ながったらしいですが。
権威の詐称に注意してください。高い学位は、その学位の専門分野において権威を与えます。まず自問すべきなのは「引用元となる情報源に責任を持つ人々の資格や専門知識はどのようなものか」ということです。ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。ウェブ上に理路整然と記載されていたとしても、その管理者や発行元が匿名であったりペンネームであったりして全く信頼できないかもしれません。脚注が多数あるウェブサイトであったとしても、それだけでは信頼できる情報源を適切に引用しているかどうか分かりませんし、都合の良い語句だけを引用するなどの作為があったり、敵対する個人や団体、政治集団や思想、民族や国家の名誉を攻撃する目的で作為されている可能性があります。あるいは特定の哲学や信念、宗教的な教条や確信により中立的と考えにくい場合があります。このような文献や新聞雑誌、ウェブサイトを参照しようとする場合、その参照先が匿名の資料や記事、匿名のサイトであるかどうかを検討するのは重要な判断基準です。
匿名や無名のペンネーム筆者のウェブサイト記事であったり、顕名性が担保されていない書誌媒体による記述が仮に理路整然としており納得できるものであったとして、その記述をあなたが仮にWikipediaに紹介したとしても、それを第三者のWikipedia読者が自分の学術論文やその他の公的活動に利用したさい、「信頼できるもの」を参照していると客観的に評価を受けることは困難です。匿名サイトや匿名記事、Wikipediaにしか引用元が発見できないような種類のあなたのWikipediaへの投稿は他のWikipedia読者の公的活動にとっては何の貢献もしていないばかりか、善良なWikipedia読者に恥をかかせる原因になる可能性があることも考慮してください。
記事の主題について議論がある分野においては、すくなくとも史料・資料として定評のあるもの、あるいは修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。一方で定評のある報道メディア(新聞・雑誌・テレビ等)であったとしても、その記事が事実の報道や整理ではなく評論や論考の種類である場合、無記名やペンネームであったり読者投稿欄への読者の投稿や、その分野において定評や名声のない(ないし匿名の)出演者の発言は、すくなくとも定評や名声のある記者・学者・論者の記名記事に比べて百科事典が参照すべき対象として著しく信頼性が劣る可能性があります。海外の信頼できる文献資料を無名あるいは匿名の翻訳家が紹介している場合なども「信頼できる情報源」として認定されない可能性があります。
権威ある議員や政治家、学者、著名な論者の発言や文章については、仮にその発言や内容について問題があり間違っていたとしても適切な範囲で紹介することができます。仮に特定の哲学や信念、宗教的な教条や確信により中立的と考えにくい場合であっても、その論述を公表している団体や個人が充分に著名で特筆すべき顕名性をもって現実の活動を行っている場合はWikipedia編集者としての個人的な編集感覚や信念に反していても、適切に紹介することには同意すべきです。そのさい様々の対照的な立場からの信頼できる情報元を紹介することで中立性に配慮するのは好ましいことです。特定の思想信条や哲学を広告宣伝するものにならないよう配慮してください。とくに過剰な引用はWikipedia:著作権により禁止されていますし、雑多な内容を羅列することで「木の葉」を森に隠してしまうことはWikipedia読者をうんざりさせるものです。
その分野について書き下ろされ、充分な評判を獲得しているテキスト(教科書)は信頼できるもののひとつです。一般にこうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されます。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めており、そのテキストの内容についてのやはり信頼できる批判や反論がすでに提示されているか、可及的に提供されることが期待できます。教導的趣旨をもったテキスト、とくに各国政府や政治団体、宗教団体の検定を受けることを要件として提供される種類の「教科書」は、特定の見地によりのみ記述され、他の権威ある論考を紹介していない可能性があります。このような場合「教科書」のみに依拠して、他の論考を排除するようなWikipedia編集方針は
Wikipedia:中立的な観点の基準に抵触する可能性があります。
--大和屋敷 2011年4月28日 (木) 15:43 (UTC)
- ありがとうございます。しかしここまで事細かに言わねばならないのかと思います。多分に中立性・特筆性を意識しすぎです。 あまり大量に記述すると無用な議論を呼び、肝心な意味がボケてしまいます。ここで言及されるべきは、「権威の悪用」「一見権威がありそうな、実は権威のない記述」に注意せよという事だけですので、今のままの方がましでしょう。 ざっと考えて現実問題として必要なのは。
- ~~教授という場合、分野として畑違いの学者ではないか?
- もっとひどい場合は、自称~教授だったり、誰でも購入できる「教授」「学歴」もどきだったりしないか?
- 権威ある雑誌・新聞からの情報であっても、広告欄・投稿者欄のたぐいでないか?
- 大学で使用されている教科書は一般に権威を認められてかまわないが(ただし最も高いかどうかはどうかな?)、小中学校で使用されているような教科書の場合は、国家としてのプロパガンダの推進になっていないか注意が必要。 くらいで良いでしょう。--Dictionwolf 2011年4月29日 (金) 02:15 (UTC)
反対 修正に反対します。おもての文章には単に「政治的な認可に従っています」とあるのみにも関わらず、そこに個人的な考察を重ねすぎており、問題意識を共有できません。Dictionwolf 氏に同じく、修正案よりも現状を支持します。読者をうんざりさせるな、と言いつつこの文章は無いでしょう。- NEON 2011年4月29日 (金) 13:20 (UTC)
- 肝心な箇所だけに焦点をあてるべきでした。pointは現行案では「最も信頼できるのは・・・教科書」としながら「しかし中・高テキストは政治的な認可に従って(おり信頼できかねる)」と宣言的に記述しているため論理矛盾になっており、適切に解説が必要である点にあります。小中高の検定教科書はあきらかに「信頼できるもの」のひとつです。
権威の詐称に注意してください。高い学位は、その学位の専門分野において権威を与えます。脚注が多数あるウェブサイトは全く信頼できないかもしれません。まず自問すべきなのは「ウェブサイトに責任を持つ人々の資格証明や専門知識はどのようなものか」ということです。ウェブ上には誰でも好きなことを投稿できます。
彼らが議論している分野において、修士以上の学位、もしくは実証可能な形で公表された専門知識を有する人によるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。
【その分野について書き下ろされ、充分な評判を獲得しているテキスト(教科書)は信頼できるもののひとつです。一般にこうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されます。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めており、そのテキストの内容についてのやはり信頼できる批判や反論がすでに提示されているか、可及的に提供されることが期待できます。教導的趣旨をもったテキスト、とくに各国政府や政治団体、宗教団体の検定を受けることを要件として提供される種類の「教科書」は、特定の見地によりのみ記述され、他の権威ある論考を紹介していない可能性があります。このような場合「教科書」のみに依拠して、他の論考を排除するようなWikipedia編集方針は
Wikipedia:中立的な観点の基準に抵触する可能性があります。】
--大和屋敷 2011年4月30日 (土) 02:33 (UTC)
- 恐らく小中学校の教科書というのは、日本の検定教科書でなく、他国のとんでもないような教科書指していて、それを持って権威を振るいまくることを戒めているものと考えられます。 例えば誰かが日本の戦前の教科書を引っ張り出してきてあたかも権威があるとばかりに歴史項目を書き換えていったらどうですか?たちまち編集合戦ですよね。--Dictionwolf 2011年4月30日 (土) 12:54 (UTC)
- wikipediaの「信頼できる情報源」というのは本来検証可能性についての十分性、すなわち「情報源の」歴史的・百科事典的重要性やその堅牢性(たとえば国会図書館に保蔵され未来永劫保蔵が期待できる等)についての言及のはずなんですが、いつのまにか「内容の真実性」について論じようとするから今般のような問題が発生しているのだと思いますよ。Wikipediaは真実を収集する場所ではありません。すくなくともWikipedia執筆者の活動している「現代」という時代において公知され広く知られている内容であったり、充分に特筆されている情報であって、なおかつ過渡的・一時的でなく、将来にわたり検証可能で充分に誰もがアクセスできると見なせる情報を、中立的に紹介する場所です。検定教科書は充分にこの基準を満たしており、あえて「しかし中・高テキストは政治的な認可に従って(おり信頼できかねる)」と論理矛盾をおこしてまで宣言的に記述するべきものではありません。中・高テキストは充分に「信頼できる情報源」です。--大和屋敷 2011年4月30日 (土) 13:38 (UTC)
- 中・高テキストを「信頼できる情報源」として扱うことに反対です。理由は以下の通り。
- 中・高テキストは子供向けに分かりやすく書いているので、記述の詳しさや学問的な厳密さの点で劣る。Wikipediaが目指している「百科事典」のレベルは、中学・高校レベルの知識ではないはず。
- 中・高テキストがカバーしているのは、学問的に重要かつ基本的な事項だけ。そういう事項については、より詳細で厳密・正確な情報源(大学テキストや学術論文等)を容易に見つけることができる。わざわざ子供向けの教科書を持ち出さなければならない理由がない。
- ついでに言うと、「政治的な認可に従って・・・」のような余計なことを言うからおかしくなるのでしょう。単に「大学レベルの教科書は「信頼できる情報源」として使えますが、中・高レベルの教科書は使えません」とだけ言っておけば充分だと思います。--Dwy 2011年4月30日 (土) 14:38 (UTC)
- 「信頼できる情報源」と「信頼できる情報」を混同されておられるようですね。他の方のご意見も賜りたく存じます。--大和屋敷 2011年4月30日 (土) 14:50 (UTC)あれ、Dwyさんのような古参の方もこうお考えなのですねえ。ちょっとWikipediaに関する僕自身の期待のほうが過大だったのかもしれませんねえ(´Д`)・・・しょせんは現実世界とか管理人の性向を超えられないか・・他の方のご見解も宜しく--大和屋敷 2011年4月30日 (土) 14:55 (UTC)
- 大和屋敷様、何かポイントがずれているような気がします。 「偽の権威に注意」で述べられているポイントは、信頼できる情報源か否ではなくて、権威があるかどうか、つまり本文の冒頭にある、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません。に呼応するもので、子供用のテキストは「信頼できる情報源」になりえますが、学問的権威があるとは限らないのでトッププライオリティーとならない、と言うことを述べている箇所であろうと考えます。 つまり政府には政府の立場があるので、政治的権威はあっても都合の悪いことは避けるものなので、ウィキペディアの言う権威(学問的権威)とは別ということです。 --Dictionwolf 2011年4月30日 (土) 19:52 (UTC)
- コメント 日本の学校教科書を出典として使うような場合の方針は「小中高で使われる学校教科書は概ね信頼できる情報源と見なされますが、北方領土問題や竹島問題のように対立のある分野については中立性に留意して下さい」というものであると思うのですが、大和屋敷さんの文案だと、結局のところ小中高の教科書を「信頼できる情報源なので、対立する分野でないのなら使って良い」と言っているのか「特定の見地によりのみ記述されているので、対立があろうがなかろうが単独では使ってはいけない」と言っているのかが少々分かりにくく感じられ、もう少し推敲の必要があるように感じています。ノートでの発言を見る限り大和屋敷さんの主張は前者だと思うのですが、後者にも読めてしまいます。
- Dwyさんの意見に対して。「Wikipediaが目指している百科事典のレベルは、中学・高校レベルの知識ではない」とは言うものの、小中高の学校教育で習うレベルの内容に{{要出典}}を張り付けたり、「出典なし」を理由に除去を繰り返す者が現れたり、ノートで真偽が議題に上ったとき、すぐに専門書が見つからない場合の代替処置として、学校教科書を出典として利用するという状況は十分あり得ると思います。「Wikipedia:独自研究は載せない」によれば、分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説は一次資料に基づいていて構わないとされていますが、全ての「分別のある大人」が中高生の学校問題で満点を取れる程の学力を身に着けているとは限らないので、学校教育レベルの内容であっても出典の需要はあると考えます。--Kanohara 2011年4月30日 (土) 23:46 (UTC)
- 「(検定教科書は)特定の見地により記述されている可能性があるので、【他の学術的・権威的に「信頼できる」記述を除去するための材料に利用してはいけない】」というのが当項目の後段でのもっとも明示すべき論点であると考えます。「特定の権威に依拠して他の権威を排除してはならない」。これを前段の流れを引き継いだまま「偽の権威に注意しなさい」と述べてしまっているので、本来の趣旨からズレているのじゃないでしょうか。文字通りの「偽の権威」なら、前段が述べるようにそれは権威ではないわけですからWikipediaから排除しなければなりません。しかし、ある国(や宗教団体など)により検定された教科書は、明らかに権威ある情報源から公表されたものでありますので、(仮にその内容が間違いであり編集者が受け入れがたいものであっても)適切に紹介することを排除すべきではない。--大和屋敷 2011年5月1日 (日) 01:43 (UTC)つまり独島は有史以来朝鮮だとする韓国の検定教科書も、人間は神に創造されたとするインテリジェントデザインも、権威ある書籍(ここでは「中高教科書」)を引用元にしているかぎり、それは「偽の権威」ではないのであるから、適切に紹介されておれば排除すべきではない、ということです。偽の権威ではなく、特定の見地からのみ記述されているだけである。--大和屋敷 2011年5月1日 (日) 01:54 (UTC)
- では、文面を修正するとしたらこのような方向性でしょうか。
もっとも、教導的趣旨をもったテキスト、とくに各国政府や政治団体、宗教団体の検定を受けることを要件として提供される種類の「教科書」は、特定の見地によりのみ記述され、他の権威ある論考を紹介していない可能性があり、中立的な観点に注意を払い、適切な形で紹介する必要があります。このような場合「教科書」のみに依拠して、他の論考を偽の権威と見なして排除するような編集方針は中立的な観点の基準に抵触する可能性があります。
- --Kanohara 2011年5月1日 (日) 02:23 (UTC)
コメント 私の理解で「政治的な認可に従っています」とは、例えば日本であれば(検定を通った)教科書は教科用図書検定基準及びそこから参照される教育基本法や学習指導要領に沿った内容・構成になっており、それは百科事典を編纂する上での情報源として適切ですか、各自留意して下さい、程度の意味しかありません。
ある種の「中立性が損なわれる」のは、「認可を得る」べくした結果のごく一部でしかありません。学徒の成長段階、授業時間、他の科目との依存関係、社会的要請、検定教科書が受ける制約は挙げればきりがありません。これら全てが百科事典の情報源としての質や量を抑制します。そもそも中立性という話をするならば、大学レベルのテキストこそ扱いが難しいはずです。
「教科書採択運動やらそれに対する糾弾活動といった闘争」を真っ先に挙げ、「認可に従う=中立性の問題」だと決め付けることは、狭窄かつ偏った視点です。その視点に依拠しすぎた議論ではありませんか。- NEON 2011年5月1日 (日) 05:00 (UTC)
- 文章を改定するにしても、表現の象徴性をむやみに高めればよいというものではなくて、具体的、直感的に分りやすい文章を、正確ではあってもわざわざわかりにくくするのは、何も知らない新規参入者の理解を削ぐ意味でも好ましくはないでしょう。
もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています。
- という文章に誤解を生じさせる問題点が存在するのであれば、
もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。しかし、高校や中学校の教科書、宗教団体の教科書は学問的な権威を保とうとするよりは、認可する組織の主張をより強く反映しているかも知れません。この種の教科書は、中立性に注意しつつ出典として利用できますが、最も権威がある出典としては扱いません。
- くらいの変更で十分と考えます。--Dictionwolf 2011年5月2日 (月) 15:08 (UTC)
- NEONさんの論点は、専門性の範囲の広さについてのお話であって「権威」「劣る権威」「偽の権威」の論点では無いでしょう。高校のテキストから適切に引用された内容を、大学の専門分野の記述に置き換えることで、大多数の初心者のWikipedia読者に理解不能な記事になってしまうような場合なども普通に考えられます。要はこれらは権威が「優れている」「劣っている」「偽である」という観点ではなく、いかにWikipedia読者に読みやすく、専門的すぎず簡易すぎず、現実に役に立つ【範囲】で編集するかという、記述範囲の問題です。小中学校のテキストの権威にのみ依拠して、大学等のテキストの権威を排除するような編集方針であれば、それはあきらかに「権威」の乱用ですが、ある編集者が論文から起筆して数式やら専門用語で埋め尽くされ理解困難な状態になっている記事を、別の編集者が中学校教科書から起筆して補完したり解説したりすることは非常に適切でしょう。ましてや学術論文の場合は、通説とはいえないものや定評を得ていないものも多く、このような論文を小中学校の教科書に権威において上位にあるとはとてもいえません。数学や科学分野などではあまり無いのかもしれませんが、たとえば法学や経済学、歴史学などではこの論点は重要です。ウィキペディアは信頼できる情報源から適切に引用された情報であれば、仮にその内容が矛盾しており編集感覚としておかしなものに見えたとしても、適切に紹介することができます(そのオカシな説を読者が知ることに貢献できる)。僕としては前のKanoharaさんの版[7]のほうがいいですね。--大和屋敷 2011年5月2日 (月) 15:22 (UTC)
- 「そもそも」なんですが、現行の英版[8]において『しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています』だとか『編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません』だとか言った記述は存在していないように思うのですが。常識的な編集感覚で考えて(どこの誰とも知れない匿名の)Wikipedia編集者が、外部の「権威ある」情報源をランクづけたり選択(剪定)できたりするのはほとんど困難なはずです。せいぜい学術的と言えるものに学士・修士論文は基本的に含まないとかの【「信頼」の十分性を満たしていない】基準だけではなかろうか。--大和屋敷 2011年5月2日 (月) 23:10 (UTC)
- コメント 分野ごとに事情が違うというのならば、そのような議論をこういう上流の文書で行わないで下さい。政府の認可に伴う様々な問題が、大和屋敷氏の知っている分野では中立性の問題として見えているに過ぎません。中高の教科書は中立性に問題があるだけで信頼できる、などと明示されたら迷惑を被る分野があるのは、Dwy 氏の意見や Kanohara 氏の具体例の通りです。各論(#分野ごとのアドバイス)や社会系のプロジェクトで提起して下さい。- NEON 2011年5月4日 (水) 03:13 (UTC)
「偽の権威に注意」の項目について(修正案)
提案を【記述:「しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています。」を除去してはどうか】に修正します。他の方のご検討を1週間ほどお待ちします。とくに異存ございませんようでしたら該当箇所を削除したいと考えます。--大和屋敷 2011年5月4日 (水) 06:41 (UTC)
賛成 記述の除去に賛成します。付随しての話ですが、他の要検証の箇所はどうしますか。- NEON 2011年5月7日 (土) 16:50 (UTC)
- 宣言上の矛盾が解消できますので他の要検証箇所は除去の方向で良いとおもいます。--大和屋敷 2011年5月9日 (月) 03:39 (UTC)
- 他の要検証箇所は、記述改善の余地はあるとしても、除去すべき、問題のある記述とは思いません。除去に反対します。--Miki08 2011年5月11日 (水) 04:11 (UTC)
- あ、誤解をまねく記述でした。「要検証箇所タグの除去」の方向で良いとおもいます、との趣旨でした。--大和屋敷 2011年5月11日 (水) 04:29 (UTC)
- タグの除去なら賛成です。--Miki08 2011年5月11日 (水) 08:05 (UTC)
賛成 誤解を与えかねない文章の除去なら構わないですよ。--Dictionwolf 2011年5月7日 (土) 18:16 (UTC)
反対 現行の記述は有意義なものと思います。「政治的な認可」を「政府等の認可」に変更し、以下の修正でいかがでしょうか?
- (現行) 「しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています。」
- (修正案)「小・中・高校の教科書は政府等の認可に従っており、社会科などでは注意が必要なこともあります。」--Miki08 2011年5月9日 (月) 02:52 (UTC)
- 「政府等の認可に従う~」云々という記述を加えることは「偽の権威」「劣る権威」であるかのような文脈になるので反対です。検定済み教科書は(仮にその記述がWikipedia編集者の良識に反する内容であり間違いであったとしても)権威において充分です。大学や学会で公表された文献と「権威」において差があると断定しているのは(ここでの議論に参加している、要はMiki08さんの)編集者の【勝手な判定・選定基準】にすぎません。検定済み教科書は充分に検証可能性のある情報源として信頼できるものです。Wikipediaにおける「信頼できる情報源」とはMiki08さんのおっしゃるようなものでは無いでしょう。「信頼できる内容」と「信頼できる情報源」を混同されておられる典型だと思います。【情報源の】信頼性や権威を問うているのであって、単なる採録基準です。--大和屋敷 2011年5月9日 (月) 03:10 (UTC)...と言ったような事を冒頭から議論しておりますのでご一読のうえ反論・提案等よろしくお願い申し上げます。--大和屋敷 2011年5月9日 (月) 03:15 (UTC)
- Wikipedia:信頼できる情報源#信頼性をお読み下さい。 これはオンライン情報についての節ですが、本題に入る前に、ここでも改めて権威について述べられており、信頼性はスペクトルのように幅があると述べられています。(保身する場合があるので、政府の出版物に注意せよとも・・・)。 今の草稿は、草稿であっても長年多くの編集者から是とされているわけであり、勿論改善はできる余地はありますが、「編集者の【勝手な判定・選定基準】にすぎません。」「信頼できる情報源/信頼できない情報源」のような二元論か三元論でいいみたいに考えておられるのは、失礼な物言いになるかも知れませんが、大和屋敷さんただお一人ではないかと思いますよ。 「偽の権威に注意」はその出典が使えるか否かを論じてるのではなくて、使用する場合の、優先順位の扱い方を間違えるなということを論じているのです。 政府の持つ権威とは政治的権威であって、学問的な権威と違うので混同するなということです。 小中学校の検定教科書は信頼できる情報源の中に入りますが、権威はより下位にあるものです。使用に際しては歓迎される分野もありますが、科学や歴史のように、どっちかと言えば、より権威ある出典に差し替えられる場合もあるような位置づけになっています。--Dictionwolf 2011年5月9日 (月) 04:19 (UTC)
- その節は「オンラインの、自己公表された情報源」について特筆して解説しようとしている一節でしょう?たまたま都合の良い語句があったからといって文旨に関係なく利用しないようお願いしますよ。検定済み教科書は「オンラインの情報源」でも「自己公表された情報源」でもないですよね?宜しくお願いしますよ。--大和屋敷 2011年5月9日 (月) 06:59 (UTC)【「偽の権威に注意」はその出典が使えるか否かを論じてるのではなくて、使用する場合の、優先順位の扱い方を間違えるなということを論じている】のではありません。先にも触れましたが[9]、そもそも編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません』だとか言った記述は英語版にはなく、これ自体がおかしいのです。無名のどこの誰とも知れないwikipedia編集者ごときが情報源の権威にランクづけできるはずがないでしょう。そんなことは自明のことです。せいぜい出来るのは「さすがに学部生論文は信頼できるものとは言えないだろう」「さすがに大学の講義ノート程度では信頼できるものとは言えないだろう」「さすがに教研集会のレジュメ程度では信頼できるものとは言えないだろう」といった程度の『消極的な合意』であるはずです。--大和屋敷 2011年5月9日 (月) 07:06 (UTC)
- はたして都合の良い文章というだけの事なのでしょうか? ですから、ここで言及されている権威について、てっきりそう思われているのは、大和屋敷様だけではないかという指摘なのですから、二人の間だけではお互い納得できないでしょうから、少し落ち着いて待ってみて、何人かの意見にじっと耳を傾けてみませんか?--Dictionwolf 2011年5月9日 (月) 07:33 (UTC)
- 「何人かの・・」って、削除反対はいまのところDictionwolfさんだけなのですが。そう情緒的な意見に頼るのではなく、ちゃんと対論お願いしますよ。Wikipediaは多数決主義ではありませんのでべつにお一人であっても公論・正論であれば議論になりますので、多数・少数に頼る種類の提起によるのではなく議論の仕方は覚えてください。Dictionwolfさんは2011年2月にアカウント作成して編集活動を開始されたようですが、まずは色々と記事を作成して編集検討の経験も積んで見られてはどうですか?英語版en:Wikipedia:Identifying reliable sourcesをお読みになることもお勧めします。また直近の議論だけでなくちゃんと全体を把握してください。--大和屋敷 2011年5月10日 (火) 01:22 (UTC)
- en:Wikipedia:Identifying reliable sources とそこからリンクしている種々の文書こそ、情報源の権威や信頼性の評価法について書かれたガイドラインでしょう。日本語版でも、情報源の評価について踏み込んだ議論を行い、建設的な結果を得ているノートやプロジェクトは多々あります。「はずがない」「自明」など、自分が知らない/分からないことを周囲に適用するのはやめて下さい。何でそんなに自信満々なのか分からないのですが、多分 Dictionwolf 氏の方がずっと良く事情や方針を理解しています。あなたこそもっと各種方針への理解を深め、実際に情報源に依拠した編集の経験を積んでから、ガイドラインレベルの議論に手を出すべきです。納得がいかないようならば、本件もしくは自分の行為についてコメント依頼を出してはどうですか。
今後の誤解と無駄な議論を無くすために良かれと思い、当該記述の除去に賛成していますが、そのような勘違いを助長させるだけならば賛意は撤回します。- NEON 2011年5月10日 (火) 01:37 (UTC)
- コメントえーっと、編集経験の長短に論点をもってゆくのはずるいですよ。 重要なのは国語力であって、いかに文章の趣旨を理解するかです。『編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません』についてもおかしいと、言われているようですが、編集たちではなく、編集者はと単数で述べているのですから、これは編集者が通常行う全く当たり前のプロセスを分りやすく説明している文章というだけのことであって、複数入手した信頼できる情報源の中で、例えば、大学のテキスト、新聞、テレビ、査読されていない大学教授のネット上の文章と、色々使える出典の中で、どれを最優先に選べば良いかというただそれだけの、いわば無意識にやっている選別について、全く初めての人にもわかるように噛み砕かれた部分であって、おかしくも何ともない文章です。 日英のやり方の中で、それは変わりませんし、だいたい日本のウィキペディアは形式的な英語版至上主義でもないんですよ。 英語版の発展は、この部分が充実したので、この文章の役割が終わりました。みたいな(いわば移動的発展です)感じ進んでいるみたいなのに、大和屋敷さんの主張は英語版にには、もう無くなったからここは時代遅れだ、さあ削除しようなんて、乱暴にも程があるし、大学で使用されてるテキストと小中学校のテキストを等価に扱おうみたいな考え方をしている今の大和屋敷さんの主張の方が危険なのです。 草稿を改善したいのであれば、まずは御自分が、ここで述べんとしている権威の扱いについて、正しい理解をすることが先決です。--Dictionwolf 2011年5月11日 (水) 09:04 (UTC)
- 中高教科書と大学や学会で公表された論文は、それだけでは「権威において」差があるかどうか明らかではありません。中高教科書はWikipediaが参照すべき「信頼できる情報源」として学会論文と「権威において」差はありません。Dictionwolfさんは学会論文がおおむね詳細精緻であり中高教科書はおおむね教導的概説にすぎない点をもって権威に差があるともしかしたらお考えかもしれませんが、それは情報源に記述されている情報の内容の【範囲】の問題であって、参照すべき「信頼できる情報源」の権威について何らかの示唆を与えるものではありません。検定済み教科書はWikipediaが参照すべき情報源として(仮にその内容が学会の主流派でなく、あるいは批判されていようが)権威として充分に信頼できるものです。--大和屋敷 2011年5月11日 (水) 09:15 (UTC)
- ですから、それは出典が使えるか使えないかという、ただそれだけのことですよね。 議論が進んでいないようにお見受けします。 権威に差がないと仰るのであれば、コミュニティーの合意を受けて下さい。--Dictionwolf 2011年5月11日 (水) 09:26 (UTC)
- 現在の編集基準には「中高教科書は権威において差がある(劣る)」主旨で宣言されており、その宣言文はWikipediaコミュニティの合意を受けた物でも何でもなく、2006年6月・8月時点の英語版を翻訳した時点でいきなり登場した字句です。Dictionwolfさんの論旨に仮に立つとすれば、それこそコミュニティの合意をまず得るべきでしょう。そして、すでに申し述べましたがDictionwolfさんが後生大事に守ろうとされておられるこれらの字句は、現在の英語版にはすでにありません。他の編集者を論破することが目的になるのはWikipediaに参加された方が最初に陥り勝ちな落とし穴です。(どこの誰とも分からない、匿名の)私ごときを論破しようとする無意味をご理解ください。仮に一人のWikipedia編集者を論破したとしても、別のどこの誰とも知れない赤の他人のWikipedia編集者が蒸し返せば同じことです。「他の編集者が~」「多数の編集者が~」同意することは好ましいことですが、過度に多数決原理に依存するのではなく(Wikipediaは多数決主義ではありません)公論・正論で検討して頂きますようよろしくお願い申し上げます。--大和屋敷 2011年5月11日 (水) 12:07 (UTC)
報告 本件について、コメント依頼を出しました。- NEON 2011年5月11日 (水) 13:56 (UTC)
- 「その宣言文はWikipediaコミュニティの合意を受けた物でも何でもなく」とのことですが、翻訳されて2006年8月から4年半以上ガイドライン案に記載されているのですから、日本のコミュニティの合意はいちおう得ていると思います。また、高校や中学校の教科書は文科省の検定意見に従わざるをえないのですから、「政治的な認可に従っています。」というのは事実です。--Miki08 2011年5月12日 (木) 07:08 (UTC)
この議論の項目の最初の最初からお読み頂ければ分かると思いますが、大和屋敷は事実関係として「小中高教科書が政治的な認可に従っている」という事を否定しているのではありません。それを論点にしているのではないです。「政治的な認可(検定)に従っている」教科書の【権威】が、ある1つの(複数の)学会論文の権威と比較して「偽の権威」「劣った権威」であるかどうか、そんなことを匿名のどこの誰とも分からないWikipedia編集者によって順位づけさせることはほとんど不可能ではないのか、と慎重に申し述べているはずです。検定済み教科書は教導的意図があり、ある学説や意見を記述していないのが通常であり、その点で【範囲】として最高のものではないと言える、しかし【権威】において(最高のものではないにせよ)劣るものであったり、偽の権威であったりすることは無いだろう。中高教科書は権威においてはWikipediaが参照するにあたり充分に信頼できる【情報源】である。だからこの項目から余計な記述は削除してはどうか、と提案しているわけです。--大和屋敷 2011年5月12日 (木) 21:14 (UTC)
- 該当の文
「一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています」
ですが、この文意は読んだままの通りであって、大学教科書は権威のあるものと考えられる、なぜならば「こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるから」(前の文)、また「頻繁に改定が行われるから」(後の文)である。しかし、高校や中学校の教科書は(あるいは比較的)権威のあるものと考えられない、なぜならば大学教科書は前記のような権威を保ち続けようとする努力を行っているのに対し、高校や中学校の教科書はそうではなく、学術的権威を必ずしも保とうとはせず、単に政治的な認可(政府の認可)に従っているだけだからである。と解釈するのが妥当と考えます。
- 私はそのような主旨を支持しますし、高校・中学の教科書が学術的に権威のあるものかと問われれば、そうではないと思います。高校・中学の教科書を出典として用いるのは、できれば避けたほうが良いのではないでしょうか。もちろん、文脈や必要性に応じては利用を妨げるものではないとも考えます。現在の文章も注意喚起であって禁止ではないようですので、そのままでも良いように思われます。
- 与えられた情報源が権威のあるものかどうか判断することが、ウィキペディアの投稿者には可能であるという点については合意のあるところ(そうでなければ本ガイドラインは無意味となってしまう)であると考えます。情報源が複数与えられ、それらの内容に違いがあって、文章の記述の都合上どちらかを選ばなければならない事態が生じた場合、どちらのほうがより権威があって採用するに値するか検討することも、ウィキペディアの投稿者には可能であると考えます。
- なお、英語版では大幅改定が行われた際に該当の部分も同時に除去されていますが、該当部分固有の除去理由についてはノートを探しても見つけられませんでした。現行の方針でも、"Material such as an article, book, monograph, or research paper that has been vetted by the scholarly community is regarded as reliable" とはあるものの、High school and middle school textbooks が信頼できる情報源として例示・推奨されている箇所は見当たりませんでした。
- --Calvero 2011年5月14日 (土) 13:39 (UTC)
- 検定済み教科書が「劣る権威」であり、学術論文が「権威」である、というのはWikipedia編集者の「憶測」に過ぎないのではないかと考えています。Calveroさんの説【「大学教科書は前記のような権威を保ち続けようとする努力を行っているのに対し、高校や中学校の教科書はそうではなく、学術的権威を必ずしも保とうとは」していない】を客観的に、外部の信頼できる情報源により証明することができますか?(たとえば学習指導要綱にそのように明確に記述してある等。※むろん現実にそのようなものが通説として現に資料として存在しており、提示可能であれば今般の議論はそこで決着です※)。ぼくは一見すると非常に説得力をもつCalveroさんの、その説がじつはWikipediaという「匿名のどこの誰とも分からない編集者によって」作成される百科事典にとって危うい点のひとつじゃないかと考えています。Wikipedia編集者(ごとき)に積極的な「権威の判定」をおこなう権能はありえないのではないだろうか。かような論点から【情報源の権威の順位づけ】において消極的基準(すくなくとも学士論文は権威とはいえないだろう、すくなくとも講義ノートでは~、すくなくとも教研集会のレジュメでは~)にとどめるべきじゃないかと考えています。なお、この観点におきましては、分野ごとのアドバイスが非常に意味があり、たとえばこの中で「(権威においては劣るものではないが)一般にK-12を対象とした教科書を情報源にすることはあまりおすすめできません」と記述する分にはなんら問題はないと考えています(Wikiipedia編集者の、なまの、経験にもとづくアドバイスですので)。--大和屋敷 2011年5月14日 (土) 14:46 (UTC)
- そうですね、一見もっともらしくても、鵜呑みにしてはいけないということですね。英語版での該当の記述は、なんの断りもなく突然追加されたようです[13]。おっしゃるような出典を探すのは難しいように思われますが、一方で文部科学省のサイト[14] を見ると、教科書調査官は高度な知識と専門性を持った大学教授が選任され、正確性についてもこれを保持するよう努力が払われているようです[15]。従って、中学・高校教科書が権威について劣っているとはいえないと考えられます。英語版でも、該当の節はそもそも意図しているところが違うように見受けられますので、件の箇所は除去してもよいように思います。
- ただ、「権威の判定」(出典として使えるかどうかの判定)について、それはそれほど高度な判断を要求されているわけではなく、基本的には、フラグを立ててこれは使える・これは使えない、と単純に分ければよいことで、不可能ではないと考えます。学士論文が使えないほうの例として設定できるのであれば、有名教授による教科書とか、査読つき論文は使えるほうの例として設定することもできるのではないでしょうか。あと細かいところはケースバイケースで対応できるように詰めればよい、すなわち「分野ごとのアドバイス」を作って示せばよいように思います。
- --Calvero 2011年5月15日 (日) 08:06 (UTC)
- 「高度な知識と専門性を持った大学教授」(例えば鳥海靖や佐原真)が「正確性についてもこれを保持するよう努力」を払っていても、「学習漫画」みたいなやつ(これやこれ)は権威に欠けて、出典には使えませんよね。高校の教科書はそれほど極端ではないかもしれませんが、所詮は初学者用の入門書にすぎませんから、少なくとも学術的な意味での「権威」は大きく劣ると思います。
- 下にも書きましたが、情報源の信頼性については「大部分の人は直感的に判断できます」ということになっています。要するに「素人が(専門書を調べず)高校の教科書だけを参考にして書いた記事を、あなたは信頼できますか?」という問題です。私の直感は「百科事典の記事というのはそんなものではないだろう」と答えます。これは決して少数派の感覚ではないと思うのですが、勘違いでしょうか?--Dwy 2011年5月17日 (火) 17:34 (UTC)
- それはやはり「情報源の権威」の問題なのではなく「範囲」の問題だと思います。それは例えば「東京書籍出版・中学歴史」と「東京書籍準拠版○○塾出版・中学歴史参考書」などを考えるとよく分かります。参考書ですから後者のほうが「範囲」においては優れているでしょう。しかしWikipediaが参照すべき権威には明らかに順位があり、前者なら記事次第では引用元に充分なりますが後者はさすがに・・・と仰る方もいるでしょう。もっとも、Dwyさんの仰りようも大半の部分は尤もなお話であり、大半のWikipedianは「小中高の教科書ごときを引用元に使用するのは控えようぜ」という要求に概ね同意するでしょう。それは「権威」において劣るのではなく「範囲」において劣るからであって、要は大半の読者にとってはそのような教導的内容は「すでに学習したこと」「すでに知っていること」であって読者のWikipediaへの期待に応えられないからです。k-12が権威として充分で百科事典に参照すべきなのは例外的記述、たとえば独島が歴史的に朝鮮であるという韓国の教科書の記述や人間は神が作ったというインテリジェントデザインなどような(日本語読者にとって興味の対象として充分であろう)記述になるかと思います。この場合、内容がいかに間違いであり、あるいは別の学説を排除していようとも情報源の「権威」において劣るものでも偽のものでもありません。--大和屋敷 2011年5月17日 (火) 21:53 (UTC)
- 横から失礼します。完成度が高い記事の場合、高校や中学の教科書の出番は ほとんどないと思いますが、不正確な記述が多いとか、大事なことが記述されていないなど、完成度の低い記事の場合は、高校や中学の教科書を参考にして加筆・修正することも大いに意味があると考えます。--Miki08 2011年5月18日 (水) 01:13 (UTC)
コメントMiki08さんの上記意見に意見に賛成します。 完成度の低い記事の場合は、十分に使える場面も多いと考えます。(完成への過程の中で権威を譲る場合もあるとは思いますが) 私が最も言いたいのは、ウィキペディアが掲げる量と質を最高の百科事典にするという理念に逆行した方針は、注意深く排除されるべきということです。
- ウィキペディアの編集者には、ある程度の権威の選別能力が要求されており、間違っても良いけれど皆無ではなくて、ある殆ど同じ意味を持ついくつかの出典が入手できた場合、優先される段階があるということ。
- 小学校の教科書などは教育的配慮から「円周率は3.1です。」と断言されているような場合が多数あって、小学校の教科書と学術的な教科書の権威が等価であるという解釈は、ウィキペディアが掲げる量と質を最高にするという理念に逆行しているということ。(使えないという意味でなく使用例、「教育現場での円周率の扱い」という節を作って分離して、小学校では日本は3.1、アメリカでは・・・・、インドでは・・・・のようになるのは構わないけれども、のっけから円周率とは、円周と直径の比率をあらわす超越数〔出典〕、もしくは3.14である〔算数の教科書〕とはできないという事です。)
- ウィキペディアの説明の中で、断り書きなくK12の教科書・検定教科書といえば、世界中のK12の教科書・検定教科書の意味であって、日本の検定教科書に限定したければ、日本語のと断り書きが必要だろうということ。
- 最後に、政治的な権威、宗教的権威は学問的権威とは別であって、ウィキペディアの言うところの権威は学問的権威であることです。 例えば「進化論」を否定すべき権威は生物学者であって、国家の権威は偽の権威です。 筆性はあると思いますが紹介する場合は一般論として述べられません。これは科学のみならず経済学でも、語学(単語の起源など)でも当てはまります。--Dictionwolf 2011年5月18日 (水) 02:55 (UTC)
学術的権威が政治的権威から独立しているというのもまた、Wikipedia編集者(何処の誰とも知れない無名の)による楽観的期待にすぎないような気がします。いずれにせよDictionwolfさんのおっしゃる権威には政治的権威、宗教的権威、学術的権威と差があることは概ねその通りであり紹介する場合は一般論として述べず中立性に配慮すべきとの趣旨は仰るとおりだと考えます。--大和屋敷 2011年5月18日 (水) 04:19 (UTC)
報告いったん反映しました。「どうもしっくりこない」「政治的検定を受けた教科書は偽の権威だ、劣った権威だ」とお考えの方は草案段階ですので改めてノートで起項して蒸し返して頂ければ宜しいかと存じます。--大和屋敷 2011年5月19日 (木) 21:33 (UTC)
情報源の評価
情報源の評価の冒頭箇所について問題のありそうな箇所にタグを塗布しました。これは上記削除提案(・・中高教科書は~政治的認可に従っています)とは別の提起になります。とりあえずメモ。--大和屋敷 2011年5月11日 (水) 05:00 (UTC)
- 勝手ながら節のレベルを変更させていただきました。
- (1) 大和屋敷さんは、「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません。」という記述ならいいのではありませんか?
- (2) 「どんな分野でも」という言葉には「学術的な主題については」という限定がついているので問題ないと思います。
- (3) アメリカの学問的権威の例は、日本の学問的権威の例に置き換えたほうがよいと思います。私にはよくわかりませんが。--Miki08 2011年5月11日 (水) 08:09 (UTC)
- (1)案は良いですね。(2)の論点は(3)ともからみますが大言壮語すぎる嫌いがあると思います。現実にWikipedia編集者により充分な程度の信頼できる「権威のランク付け」情報が共有されてから、控えめに宣言する程度じゃないかと思います。--大和屋敷 2011年5月11日 (水) 08:33 (UTC)
- (1)案への変更なら私はかまいません。
- (2) 以下の案ではいかがでしょうか?
- 「学術的な主題については
どんな分野でもたいていの分野で、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。」--Miki08 2011年5月12日 (木) 13:25 (UTC)
・(2)の修正案が良さそうですね。もう少し来訪者をお待ちして特に批判なければ一旦(1)と(2)案を文面に反映させて頂く感じでよろしいですかね。どうせ草案ですし後から不具合や批判があれば、また蒸し返して頂ければけっこうだと思います。--大和屋敷 2011年5月14日 (土) 09:39 (UTC)すみません。前言を翻すようですが、(1)案は【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません。】では不都合でしょうか?bestの情報源をたったひとつだけ識別しなければならない、というのは(どこの誰とも知れない、匿名の)Wikipedia編集者に対する要求としては無理難題すぎるような。--大和屋敷 2011年5月14日 (土) 21:40 (UTC)
- 「bestの情報源をたったひとつだけ識別しなければならない」がそれほど大変なことだとは思えません。複数の情報源を調べた上で記事を執筆・編集し、準拠した情報源のうち一番権威がありそうなのを出典として記載する・・・というのは、誰でも当り前にやっていませんか?あるいは、内容やニュアンスが異なる複数の情報源のうち、どれに基づいて記事を編集するか決めるとか・・・?そういうのは「大部分の人は直感的に判断できます」[16]の範囲内であって、特に難しいことではないと思います。(黙っていると大和屋敷さんのご意見だけが正しいように見えてしまうので、ちょっと指摘してみただけです。ガイドラインのワーディング自体はどちらでも結構です。)--Dwy 2011年5月15日 (日) 01:15 (UTC)
- 私もちょっとだけ。最もXXであるもの、というのは、英語の表現で one of the best XX という表現があるように、1個に限定する必要はないのではないかと思います。--Calvero 2011年5月15日 (日) 08:08 (UTC)
- (1)案の編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません。なら変更を支持しますが、「もっとも」を削除した案であるならば、むしろ現状を支持します。 もっともは1個しか選べないという意味ではありませんので。--Dictionwolf 2011年5月18日 (水) 03:35 (UTC)
過去の新聞報道を利用するとき毎日と朝日と読売と産経のなかで「もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません」と宣言された場合、一紙を選ばなければならない趣旨に読めてしまえませんか?「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません。」の場合と比較してどうでしょう。逆にこういう事例だと不都合になる的なケースが想定できる等ご提示頂けた方が検討しやすいです。--大和屋敷 2011年5月18日 (水) 04:10 (UTC)
- 繰り返しになりますが、権威がどれかを識別したからと言っても、「唯一しか許容しない」という意味にはなりません。 そもそも考え方として、三紙のどれが権威が最高かという考え方は正しくなくて、例えば記事のなかで毎日だけが大学教授のコメントを載せていれば、その記事については毎日を権威ありとして識別します。 メインに毎日新聞を選んだとしても、読売新聞に別の信頼できそうな特筆性があれば情報を追加して構わないのです。 ルールの運用には融通というものがあって、微妙な判断で誤ったとしても問題には発展しないのです。 第一文章を斜めに解釈して例外を数え始めればキリがありません。 --Dictionwolf 2011年5月19日 (木) 12:54 (UTC)
- Dictionwolfさんの、その考え方を文面に反映させるためには「もっとも」は除去したほうが宜しいのではないか、と述べています。微妙な判断ではありません。表現が適切ではないので除去すべきと議論しているわけです。推すか敲くかの議論になります。現在の記述ではDictionwolfさんの仰りたいような趣旨には記述されていません。--大和屋敷 2011年5月19日 (木) 21:23 (UTC)
- 私の先ほど説明させていただいた考え方から「もっとも」を抜いてしまうと、全ての文章の意味が消えてしまい、単に「信頼できる出典より書いて下さい」一文だけとなってしまいます。 それでは識別作業の中で権威など持ち出す必然性が無意味となります。 信頼できるならどれでも良いという考え方では、「量は最大で、質はまあまあの百科事典でいいや」になると申し上げているのです。(現在の日本語版では、とにかく信頼できる出典をつけましょうという低いレベルにあってそれを許容しています。だから理解しずらいんだと思いますが、まだ質の成長の初期段階にいるのだと思って下さい。) 大和屋敷さんのご意見を聞いていますと、最初から権威の差というお考えがない、もしくは拒絶してしまっているために、何を述べても元に戻ってしまうのです。 そのために三紙を並べてどれが最高権威かみたいな中身のない質問をしてしまうわけです。 --Dictionwolf 2011年5月19日 (木) 22:25 (UTC)
- うーん。なんかちょっとかみ合わないですね。たとえば過去の事件について縮刷版を情報源にするとき、「読売、朝日、毎日、日経、産経、東スポ、夕刊フジ、日刊ゲンダイ」があったとして、この中に信頼性のランクづけがありますか?私はあると思います。では「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません」と宣言された場合どうですか?「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません」の場合と比べてみてください。--大和屋敷 2011年5月19日 (木) 22:54 (UTC)「量は最大で、質はまあまあの百科事典でいいや」のたとえは面白いですね。Wikipedia:完璧な記事という執筆アドバイスがあります。--大和屋敷 2011年5月19日 (木) 23:01 (UTC)
- 先ほどと同じことです。 先ほどは優劣つけがたい三社でしたが、今度は各社の編集方針にも気を配らなければいけないという要素が増えただけで、話題としてもっとも信頼できて権威があるコメントはどれかを識別するプロセスに変化はありません。 もっとも信頼できて権威があるコメントは優先的に選択されて、一般化して述べられますが、より信頼性が怪しく、より権威のないマイナーなコメントは強調されないし、むしろ記載しなくても結構です。 中立性の観点から別の編集者があえて信頼性の弱いマイナーな対立的コメントを記載する時は、情報源や発言者の名前を明記するなどして配慮する必要があります。 大和屋敷さんの案では、単に権威という単語は入っていても、とどのつまり意味するところは「信頼性のある情報源であればどれでも良い」になってしまいます。 そろそろ「もっとも=唯一しか許容しない」という図式を捨て去ってもらわないと、議論が同じところろをグルグルまわってしまいます。 一般論として東スポはスポーツ、芸能情報以外の話題は避けた方が良いけれども、日刊ゲンダイであれば、権威に配慮して「日刊ゲンダイによれば、物理学教授のOOはこのようにコメントしている」程度のことはセーフと思います。 しかし他の編集者によって除去されるリスクはあります。リスクを排除したいならば、その教授の本を借りてくるか、他紙でも同様のコメントがないか探すのが懸命ですね。--Dictionwolf 2011年5月20日 (金) 01:33 (UTC)
- うーん。けっきょくは「もっとも」の語感の問題ですかねえ。このあたりは辞書的・語義的・語感的な観点になるのでいったん取り下げておいて【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを識別しなければなりません。】で決着ということで宜しいでしょう。個人的には「もっとも」あることが、他の信頼できる情報源を排除する論理に悪意的に使用される可能性がある、と感じており、この言葉は無いほうが適切に語義を尽くしているような語調を感じますが、そんなことは無いとの反論に対しては、そうでもないのかなあという気がしないでもなくなってきました。--大和屋敷 2011年5月20日 (金) 02:51 (UTC)
- 大和屋敷さんの言いたいことはわかるような気がします。「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限り、より信頼できて権威があるものを選ばなければなりません。」という表現ではどうでしょうか? 大和屋敷さんがよいとおっしゃるのであれば、上記【】内の文でもよいですけど。--Calvero 2011年5月21日 (土) 08:08 (UTC)
- そういうことであれば、多くの支持者が集まれば私はかまいませんよ。 どう誤解しても、どれでも良いという意味にはなりませんからね。 私サイドの心配はどちらともクリアしています。--Dictionwolf 2011年5月21日 (土) 11:03 (UTC)
Calveroさんの文例で賛成です。「より=better」を使用することは、なんというか盲点でした。個人的にもCalveroさんの文例を元に検討してみましたがCalveroさんの文例ほどには語義を尽くしていない感じがしたので、Calveroさんの文例で賛成です。--大和屋敷 2011年5月21日 (土) 14:55 (UTC)
Calveroさんの文案【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限り、より信頼できて権威があるものを選ばなければなりません。】と、
Miki08さんの文案(2011年5月12日(木)13:25)【学術的な主題についてはどんな分野でもたいていの分野で、その分野の学術雑誌に見られるような査読と評価についての確立された制度を持っています。】について、もうしばらくご意見をお待ちして、特に批判・別論等ないようでしたらで反映させて頂きたく存じます。--大和屋敷 2011年5月21日 (土) 15:13 (UTC)
- コメント横から失礼いたします。ここまでのまとめがありますと、新規参加しやすいと思います。--オクラ煎餅 2011年5月23日 (月) 06:01 (UTC)
- 申し訳ありません。上記議題の検討について、ほぼまとめの段階に入っておりますので、お手数ですが冒頭からお読み頂くか新規項目を立てて議題提起頂きたく宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2011年5月23日 (月) 06:23 (UTC)
- 既にまとめに入っており、新規参加者が必要ないのであれば、コメント依頼を取り下げることを検討していただきたく思います。--オクラ煎餅 2011年5月24日 (火) 01:27 (UTC)
- 私も途中参加してます。最初のテーマは「偽の権威に注意」節の「しかし、高校や中学校の教科書は権威を保とうとするよりは、政治的な認可に従っています」という文を除去するかどうかで、出典として適切かどうかは考慮の余地があるものの、高校や中学校の教科書に権威がないとはいえないであろう、ということになり、この文は除去するということに決まりました。今はそことは別の箇所、主に「情報源の評価」の「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて権威があるのはどれかを決めなければなりません」の部分で話し合っています。概ね細かい文意の調整です。--Calvero 2011年5月26日 (木) 14:41 (UTC)
- (修正提案) 「選ばなければなりません」の語調が強いため、権威では見劣りする少数意見の排除が少し心配です。以下の案ではいかがでしょうか?
- 「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できるだけ信頼できて権威があるものを選ぶことが推奨されます。」--Miki08 2011年5月23日 (月) 09:32 (UTC)
うーん。このあたりは推敲の推敲なのでこだわり出せばキリがないですが・・・。「できる限り、より」については文章としてはMiki08さんの案「できるだけ」のほうが平生の文でありこなれているのですが、Calveroさんの文章のほうが機械的で数式的で生硬なだけ、より語義を尽くしており誤解される余地がなく適当なのじゃないかと感じています。「推奨されます」については活かせると考えますので折衷みたいですが【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、より権威あるもののグループから引用元を選ぶようにします(or して下さい)。】あたりでどうでしょう。おかしければまた蒸し返して頂ければよろしいかと。--大和屋敷 2011年5月23日 (月) 18:56 (UTC)
- 上記の大和屋敷さんの案は、「情報源はグループに属し、『より権威あるもののグループ』というものが存在する」という前提に立っているように見受けられます。これは特定の観点であり、方針文書では避けるべきと思います。「グループ」という語の挿入に私は賛成できません。
- また、大辞林 によると、「権威」とは、「[1] 他を支配し服従させる力。[2] ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、そのような人。オーソリティー。」です。ウィキペディアの出典で必要なのは明らかに[2]です。「権威」という言葉には二つの意味があり、政治的権威や地位が高いことをイメージしやすいため、「権威」を「すぐれていると一般に認められている」に言い換えることを提案します。--Miki08 2011年5月25日 (水) 00:35 (UTC)
「グループ」という語はちょっと工夫したつもりだったのですが、なるほどという気がしました。文案【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものから引用元を選ぶようにします(or して下さい)。】この文案に賛成します。--大和屋敷 2011年5月25日 (水) 01:54 (UTC)
- 「すぐれている」だと、ちょっとわかりづらいかなと思います。あと「できる限り」は「信頼できる(権威がある)」ではなくて「選ぶ」にかけたつもりでしたが、わかりづらくてすみません。なくてもいいかもしれません。それから引用というと著作権法上の引用と紛らわしいように思われます。以上勘案しまして、「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、より信頼でき、より重要であると一般に認められているものを、出典として選んでください」ではいかがでしょう。現在の英語版で "all majority and significant minority views" という文があるので参考にしてみました。--Calvero 2011年5月26日 (木) 14:41 (UTC)
- Calveroさんの案にほぼ賛成ですが、「重要である」というのはWikipedia:特筆性にあたると思います。
- 出典の選択にあたって考慮すべきことは、出典の信頼性、出典の内容、特筆性、執筆しようとする内容との整合性など、いろいろあります。したがって、「できる限りより信頼でき」と信頼性だけを一面的に強調するのは やり過ぎと思います。私の現在の案は以下のとおりです。
- 「編集者は複数の情報源を評価し、より信頼できて、優れたものとして権威があるのはどれかを見分けなければなりません。」
- 編集者が評価するのは信頼性だけではないと思い、「編集者は複数の情報源を評価し」に戻してみました。--Miki08 2011年5月27日 (金) 05:24 (UTC)
- 【「どこの誰とも知れない匿名の」Wikipedia編集者が情報源そのものを評価するなどという権能はありえない】というのが当初からの大和屋敷の主張ですので、この文案では困ります。『編集者が評価するのは、本質的に情報源の信頼性(権威)だけであるべきです』。Wikipedia編集者はあくまで何処の誰とも分からない匿名者ですので、その出来ることといえば、せいぜい「せめて学術論文では学士論文(卒論)からの引用は止めようぜ」「いくらなんでも大学の講義ノート程度では信頼できる情報源とは言えないだろう」「報道を引用するにしても夕刊フジは無いだろう」などといった情報源の権威(信頼性)についての消極的な合意(十分性:すくなくともコレを満たせば十分…)にとどまるべきです。--大和屋敷 2011年5月27日 (金) 23:54 (UTC)
- これは信頼できる情報源とは何かを解説するガイドラインなので、信頼性をいくら前面に出しても出しすぎることはないのではと思います。執筆しようとする内容との整合性については、そもそも検証可能性に基づいて出典を明示するのに齟齬があってはいけないのは当然と思いますが、ここで触れるべきかはちょっとわからないです。出典の内容については、より充実した解説や情報のある出典のほうが望ましいといえるでしょうけれども、やはりこれも、ここでそこまで設定すべきかというと難しいところです。特筆性の点について、「重要である…」というのは取るに足らない情報源の排除を意図し、また「どの学術誌は評判が良いか?」節を意識しました。しかしながら、Wikipedia:特筆性 と並行する要素があるとはいえ、記事作成のガイドラインを、別個の概念である出典の選択と直接的に繋げてしまうのはあまりよろしくなさそうな気がします。
- さて、ご案では部分的に「優れたものとして権威がある」と読め、そうすると権威があるものとしては優れたものがそうである、という解釈もでき、その場合優れたものは何であるかの説明が必要となり、ややこしいことになるように思います。権威という言葉を何とかしたいという所に戻り、「編集者は複数の情報源を評価し、もっとも信頼できて出典とするに値するのはどれかを選ばなければなりません」ではどうでしょう。尾部、少数意見の排除の意図は避けられているでしょうか。--Calvero 2011年5月27日 (金) 13:02 (UTC)
「もっとも~」にもどってしまいましたね(´Д`)…百花繚乱状態になってきましたので、申し訳ないのですが、いったん【編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものから引用元を選ぶようにします。】2011年5月25日(水)01:54時点で引き取らせてください。Miki08さんは2011年5月25日(水)00:35時点で「権威」を「すぐれていると一般に認められている」に置き換える提案をされてから2011年5月27日(金)05:24で「権威」に戻されておられ、Calveroさんは2011年5月21日(土)08:08時点で「できる限り、より」を提案され今回2011年5月27日(金)13:02で「もっとも~」に戻されておられ、<語感をもう少し強めたい-強すぎる><意味が強すぎる-却って曖昧になる>の検討段階だと拝見しました。2011年5月25日(水)01:54時点の大和屋敷の【】案はちょっと語感が弱く意味が曖昧になる点が気になっておるのですが、この一文のみで語義をすべて尽くさなければならないわけではなく、そのあとに膨大な説明分が並んでゆくわけですので、本旨・主旨としては問題がないものと考えます。いったん反映させて頂き、簡単な語感については直接本文で校訂いただき、とくに重大な問題が生じた場合には、また蒸し返して頂けばよろしいかと考えます。--大和屋敷 2011年5月27日 (金) 23:12 (UTC)
- ありゃ、「もっとも」は間違えました、すみません。思量が足りていなかった。文案としては、ご提示のものでもよいと思います。微調整は、適宜させていただきたいと思います。--Calvero 2011年5月28日 (土) 15:47 (UTC)
- 私も、反映していただいて結構です。--Miki08 2011年5月30日 (月) 05:40 (UTC)
- コメント私も一度反映させることに賛成します。--Dictionwolf 2011年5月30日 (月) 12:23 (UTC)
- コメント ただ、学者の文章とマスコミ記事の二つの情報源がある場合、学者の文章を選ぶようにする(マスコミの記事は採用しない)というふうに誤解されてもいけないので、「…認められているものを出典に選ぶことが推奨されます。」にしたいと思っています。--Miki08 2011年5月30日 (月) 12:42 (UTC)
報告いったん反映しました。Miki08さんの最後の論点提示を自分なりに解釈して多少修正してあります。簡単な語句調整については、みなさまの方で直接記事で修正してください。「どうもしっくりこない」「この表現はさすがに問題だ」という看過できない点がありましたら草案段階ですので改めてノートで起項して蒸し返して頂きたく宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2011年5月30日 (月) 15:29 (UTC)
- 上で Calvero 氏が述べている通り、「引用」という表現は著作権法における定義で解釈されるおそれがあるため変更しました。文意は変わっていないと思います。- NEON 2011年5月30日 (月) 15:49 (UTC)