K3/4次列車
K3/4次列車(中国語: K3/4次列车)とは、中華人民共和国の首都北京とロシア連邦の首都モスクワをモンゴル国の首都ウランバートル経由で結ぶ、中国鉄路総公司北京鉄路局が運行する優等列車である。モンゴル国内では003/004列車と称される,ロシア国内では003З/004З列車と称される。 概要K3/4次列車では、ドイツ製の中国国鉄18系客車及び中国国鉄19系客車が使用されている。その走行距離は7,819kmに及び、経路はほぼユーラシア大陸を横断し、豊沙線、京包線、集二線、モンゴル縦貫鉄道、シベリア鉄道を通り、中国、モンゴル、ロシアの三箇国に跨っている。そのためK3/4次列車は、中国国鉄が運行する旅客列車の中では最長距離列車となる。 北京発モスクワ行きの列車は、毎週水曜日朝に北京駅を発車し、所要時間は131時間31分(6日7時間36分)で翌週月曜日の昼にモスクワのヤロスラフスキー駅に到着する。列車番号は中国国内ではK3次、モンゴル国内では003である、ロシア国内では003Зである。モスクワ発北京行きの列車は、毎週火曜日夜にモスクワのヤロスラフスキー駅を発車し、所要時間は129時間50分(7日6時間55分)で翌週月曜日の昼に北京駅に到着する。列車番号はロシア国内では004З、モンゴル国内では004である、中国国内ではK4次である[1]。 K3/4次列車が運行を開始した1960年から2020年までの60年間に、K3/4次列車の総走行距離は地球1200周分に相当する5000万kmに及び、今までに輸送した旅客は100箇国、200万人を超える。そのためK3/4次列車は中華第一車(中华第一车)とも称されている[2]。 歴史1958年7月28日、鉄道国際協力機構による国際連絡旅客列車時刻表会議がポーランドのワルシャワで開かれた。この会議で、北京~モスクワ間をモンゴル経由で結ぶ直通旅客列車を1959年夏季から毎週1往復運行することが決定された。1959年4月8日、中蒙ソ鉄道代表会議がソ連のイルクーツクで開かれ、北京~ウランバートル~モスクワ間の国際旅客列車の運行開始について議定書が交わされ、1959年6月1日以降に運行を開始することが決定した。 1959年6月4日、北京~ウランバートル~モスクワ間の国際旅客列車が正式に運行を開始した。列車番号は3/4次で、集寧駅で台車の交換を行った。運行開始当初、3/4次列車はソ連国鉄が運行を担当していたが、翌1960年5月24日に、3/4次列車は中国国鉄の担当に変わった。そのため、5月31日に中国担当の第一列車がモスクワのヤロスラフスキー駅に到着した際には、ホームで交通大臣をはじめとしたソ連の政府高官が列車を出迎えた[3]。 この頃の3/4次列車の主要な乗客層は、出張する各国の政府関係者や代表団など、閣僚クラスの高級幹部がほとんどで、3/4次列車に使われる車輛は車庫に入っている間も中国公安によって厳重に守られていた。そのため、3/4次列車は一般庶民にとっては謎多き列車であり、“神秘的東方列車”(神秘的东方列车)と呼ばれていた[4]。 3/4次列車は、1960年代から1980年代の中ソ対立の時代になっても運休することはなかった。しかし、中国駐在のソ連外交官が列車内で拘束されるなど、双方の間で度々トラブルが発生した。1963年9月7日、モスクワ行き3次列車がソ連の国境駅であるナウシキ駅に到着した際、ソ連の入国審査官と税関職員は中国人の乗務員と乗客にのみ理不尽な検査を行った。これに対して中国鉄道部は3回にわたってソ連国鉄に対して抗議し、事件の再発防止を強く要求した。9月16日には、国務院総理の周恩来と外交部長(外務大臣)の陳毅が北京の人民大会堂で被害を受けた列車乗務員と会談し、二人はソ連側の行動について強く非難した。更に1965年10月12日には、これまでソ連、モンゴルと同じ1,520mm軌間であった集二線の軌間が1,435mmに改軌され、台車交換駅が中蒙国境駅であるエレンホト駅に変更された。 また、この頃の中国では文化大革命が行われており、列車乗務員は外国人の乗客と会話を交わすことや、出国時に人民日報やその他の新聞や雑誌を携帯することは許可されていなかった。また、乗務員達は政治的な問題を起こす事を恐れていて、乗客に写真を撮られることを好まず、列車が駅に着いた時も乗客が不用意に写真撮影を行わないよう監視した[4]。 1991年のソビエト連邦の崩壊後、中露関係は改善し、両国間を行き来する人も増えた。この時期の主要な乗客は、ロシアで商売をしようとする中国人商人たちで、客車内はまるで物資を運ぶトラックのごとく荷物で溢れかえっていた。2000年10月21日、中国国鉄は第三次大提速(ダイヤ改正)を行い、3/4次列車の中国国内区間での列車番号が現行のK3/4次列車に変更された。 2000年代以降、K3/4次列車の乗客は主にモスクワから北京を目指す欧米からの旅行者で、繁忙期には切符の入手が困難となる[4]。 列車編成K3/4次列車で現在使われている18系客車及び19系客車は1995年にドイツ・ワゴンバウ社(Deutsche Waggonbau AG、通称DWA)のアーメンドルフ工場で製作された。車体の色は従来の緑皮車塗装で、空調は付いていない。そのため暖房設備は石炭ストーブで賄われているが、これはモンゴルやシベリアなどの寒冷地域を通るためで、冬期に-30℃から-50℃まで下がるモンゴルやシベリアでは、電気暖房であると故障するおそれがあり、石炭ストーブの方が信頼性が高いとされているためである[5]。もっとも、21世紀現在の国際列車において空調が付いていないケースは極めてまれであろう。主に寒冷地域を通るK3/4次列車では、一年のうち8箇月は暖房を使用している。そのため運行中に大量の石炭を消費し、北京~モスクワ間の1往復で平均5~6トンの石炭を消費している[6]。 2012年、中国鉄路総公司は空調、シャワー室などを装備した新型車輛の導入を検討し、試運転を行った[7][8]が、(2015年11月)現在も新型車輛への置き換えは行われていない。 K3/4次列車の編成は中国国内では13輛編成で、そのうち硬臥車(2等寝台車)9輛、高級軟臥車(特等寝台車)2輛、食堂車、荷物車が各1輛である。そのうち硬臥車3輛と食堂車は北京~エレンホト間の中国国内区間のみの運用である。K3/4次列車の食堂車は国が変わる度に担当が変わり、入国時に連結され、出国前に切り離される。この他にモンゴル、ロシア国内でもそれぞれの国内区間用の硬臥車3輛が連結される。 中国国内の軌間は1,435mmだが、モンゴル、ロシア国内の軌間は1,520mmであるため、K3/4次列車は北京行きモスクワ行き共にエレンホト駅で台車の交換が行われる。そのためエレンホト駅では2時間以上停車することになるが、その間乗客は駅舎の待合室に移動するか、車内で待機を余儀なくされる[9]。 牽引機
客車増結車と12号車は連結しない日もある。
時刻表2019年12月30日現在。なお、ロシア領内は全てモスクワ時間で記してあり、北京時間およびモンゴル時間との時差は5時間である。
強盗事件1990年代初頭、経済が混乱したロシアでは生活物資が不足したため、これをビジネスチャンスと見た多くの中国人がロシアへ渡った。K3/4次列車は当時、北京とモスクワを結ぶ最も便利かつ、荷物を大量に持ち込めるルートであり、K3/4次列車がロシア国内に入ると、駅に停車する度に中国人の担ぎ屋たちが商売を始め、いつもモスクワ到着前に商品を完売するという状態であった。そのような状態のため、当時のK3/4次列車には大量の米ドルを所持した担ぎ屋や不法滞在者が乗車し、それが犯罪者の目を引き付けるようになった。車内の治安は悪化し、1992年から車内で窃盗事件が発生し始め、1993年には強盗事件が発生した[10]。 1993年5月26日、モスクワ行き3次列車が中国を出国後、規定により中国の鉄道警察官が下車したが、モンゴル入国後もモンゴルの鉄道警察官が乗務しなかった。それを知った強盗グループは他の個室に押し入り、他の乗客のパスポートや金銭を奪い、被害者に対して殴る蹴るの暴行を加えた。犯行は10時間以上に及び、強盗グループは2600米ドル、2000人民元、金の指輪4つを奪った。その後6日間、モスクワ到着までに4つの強盗グループが3次列車内で強盗行為を行い、20人以上の中国人乗客が被害を受けた。被害者の多くが負傷し、内3名の女性が強姦された。後の警察の調べによると、被害総額は7000米ドルに達し、この事件は中露列車大強盗(中俄列车大劫案)とセンセーショナルに報道された[11]。 強盗事件発生後、駐ロシア中国大使館は秘密裡に中国共産党中央委員会へ書翰を送った。これを受けて中国公安はすぐに中露列車強盗事件専門チームを立ち上げ、専門チームはロシアと中国で大規模な捜索活動を行い、1994年末までに犯人のうち102人を逮捕した。一部の犯人は第三国に逃れたとされるが、中国公安は現在も捜査を続けている。最近でも2011年7月22日に主犯格の1人である宗立勇が北京首都国際空港で逮捕された[12]。 その後、香港の映画監督麦当傑が、強盗事件の背景を描いた映画、『中国十大奇案之中露列車大強盗』(《中國十大奇案之中俄列車大劫案》)を制作した。主演は呂良偉で、1995年には中国本土でも公開された[13]。 2012年1月10日には、2010年に南寧で逮捕された邵迅の裁判が北京鉄路運輸中級法院で開始された[14]。 事故1984年10月29日、北京行き4次列車が京包線土木駅附近を走行中、一台のトラクターが無人踏切に飛び出してきた。列車はすぐに急ブレーキをかけたものの、間に合わずトラクターと衝突し、トラクターに乗っていた4人が死亡、列車の3輛目から10輛目が脱線した。この事故により、京包線は40時間8分にわたって不通となり、その経済損失は293万元に及んだ。この事故が国際列車で起きたことから、事態を重く見た中国政府は鉄道部、交通部、公安部に対して鉄道踏切通行規定(铁路道口通行规定)を発布し、国際列車が通過する沿線の踏切に対して、安全確保に努めるよう指示した。 脚註
参考文献
関連項目外部リンク |