黒木欽堂
黒木 欽堂(くろき きんどう、1866年3月11日-1923年(大正12年)8月31日)は、明治・大正時代の書家・漢学者。名は安雄。字は武卿。別号に欣堂、蓍園。讃岐国(香川県)出身。金石文の権威であり、楚辞や文選等を得意とした。 略歴慶応2年(1866年)讃岐国那珂郡良野村(現・まんのう町吉野)大宮神社祠官黒木茂矩(しげのり)の子として生まれる。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、父・茂矩は秋山厳山、日柳燕石らに学び、高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)等を務めた。 欽堂は父・茂矩と片山冲堂に学んだ後、漢学塾・二松學舍を経て、1885年(明治17年)東京大学文学部附属古典講習科漢書課後期入学、1888年(明治21年)7月卒業。二松學舍から同じ東大古典講習科に学んだ同級生に児島献吉郎、長尾雨山、山田済斎らがいる。卒業後、東京府師範学校で教鞭をとった。1890年(明治23年)には香川県尋常師範学校(現・香川大学教育学部)教諭となり、1902年(明治35年)香川県工芸学校長(現・県立高松工芸高等学校)も務めた。その後上京し、東京帝国大学、東京美術学校(現・東京芸術大学)、二松學舍などの講師を務める。 他にも、1909年(明治42年)東亜学術研究会の評議員となり儒学や中国学術の振興に努める。書に造詣が深く、1911年(明治44年)法書会を設立して近代書道の発展に尽力し月刊誌「書苑」を発行した。また、犬養木堂(犬養毅)との共著で、古い書を解説した本『書道及書蹟』を出版している。詩文にも長け、乃木希典の漢詩の師範を務め、息子の黒木典雄は、希典の「典」の字を貰った。1921年(大正10年)頃、東京帝国大学上田萬年教授と支那に遊学するが、帰国後、病により1923年(大正12年)8月31日死去。58歳。 著作に「讃岐史要」「学書の方法述」などあり、郷土史関係の書も多い。その功績を称えて明治34年(1901年)11月27日に、香川県教育会から「教育功労者トシテ表彰」されている。 著書単著
共著
参考文献
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