黒岩保美黒岩 保美(くろいわ やすよし、1921年(大正10年)11月14日 - 1998年(平成10年)5月8日[1])は日本の鉄道イラストレーター、写真家、工業デザイナー、編集者、元日本国有鉄道(国鉄)職員である。 略歴もとは現場職員として国鉄(鉄道省)に就職することを希望していたが、身体が弱かったことから画家修業に切り替える。1936年(昭和11年)、東京学生鉄道趣味連盟に参加[2]して、鉄道関係の交友を拡げた。太平洋戦争中は、何ヵ所かの軍需工場への徵用の後、海軍の嘱託となって横須賀に勤務。連合国軍の占領下となった1947年(昭和22年)2月24日、星晃の計らいで運輸省鉄道総局嘱託となる[3]。連合軍専用客車の外観と改造した車内の構造を立体的にカラー絵として残す作業に取り掛かった。当時はモノ不足でカラーフィルムなど望める時期ではなかったため、日本画の素養のある黒岩に依頼された[4]。 その後1949年(昭和24年)はじめに運輸省鉄道総局職員に採用となり[3]、車輌設計部門の旅客車担当となり、内外装の色使いや各種の標記類、殊に1950年代以降の特急のヘッドマーク・ヘッドサインのほとんどを手がける。1969年(昭和44年)、等級制の廃止とそれに伴うグリーン車の設定では、グリーン車のシンボルマークをデザインし、功労賞を受ける。 1961年(昭和36年)、鉄道友の会の会報の拡大版としてスタートした『鉄道ファン』の編集に関与、1963年(昭和38年)には三代目編集長に就任。1969年(昭和44年)10月号(100号)をもって、四代目編集長宮田寛之に引き継ぐ。その間、蒸気機関車専門の不定期刊行誌『SL』を創刊。 1972年(昭和47年)の鉄道100周年を機に編纂された『100年の国鉄車輌』では国鉄部内の編集主幹。1977年(昭和52年)春、国鉄を定年退職、同時に株式会社エリエイ/プレス・アイゼンバーンに入社。その直前の1976年(昭和51年)10月、プレス・アイゼンバーン刊の櫻井寛写真集『凍煙』を編集。 1978年(昭和53年)、『SL』の理念を引き継ぐ形で『レイル』を創刊。1980年(昭和55年)まで月刊、以降は不定期刊。 プレス・アイゼンバーンでは、1977年(昭和52年)10月に杵屋栄二写真集『汽車・電車』、1978年(昭和53年)10月に『タイ国の蒸気機関車』、1981年(昭和56年)3月に『草軽電気鉄道』、1982年(昭和57年)に『形式シリーズ D51』第2巻と第3巻、1984年(昭和59年)12月に『寿都鉄道』、1987年(昭和62年)7月に『箱根越え』を担当した。 その他、講談社や小学館などでも鉄道関係図書のイラストを担当。1974年(昭和49年)発行の記念切手「SLシリーズ」では原図作成を担当した[5]。 また、1985年(昭和60年)に登場した新幹線100系電車の食堂車の出入り階段付近や妻壁にあった歴代東海道・山陽本線特急のエッチングの原画も手がけている[6]。1997(平成9)年度鉄道友の会シルバー賞受賞(ちなみに鉄道友の会会章とブルーリボン賞・ローレル賞徽章は黒岩のデザイン)。 1997年(平成9年)秋の個展のあと、11月18日東京医科大学病院に入院。1998年(平成10年)5月8日午後10時28分、急性骨髄性白血病により逝去。享年75。没後、遺志によりヨーク鉄道博物館に英国製蒸気機関車を描いた絵画数点が寄贈された。 画集・写真集画集
写真集
共著
映像ソフト
脚注
参考文献
関連項目 |