黄允吉
黄 允吉(こういんきつ、ファン・ユンギル、朝鮮語: 황윤길、1536年 - ?)は、李氏朝鮮中期の外交官・政治家。字は吉哉、号は友松堂。本貫は長水黄氏。高祖父は黄喜。曾祖父は黄致身。祖父は黄事敬。父は黄懲。 1590年宣祖の時、通信使の正使として日本に訪れ、本国に侵攻の可能性があることを報告したが、採択されなかった。また、後の壬辰倭乱を正確に予見したことで有名である。1591年(宣祖24年)、光国原従功臣の一等級に本録された。 生涯黄允吉は士林派として出世した。早くから李珥(栗谷)・成渾(牛渓)・鄭澈(松江)などと近く過ごした。明宗の時は文科で合格し、宣祖の時、通信使の正使として日本に行ってきた。 1590 mission to Japan1591年、黄允吉は日本から帰ってきた時、朝廷に日本の侵攻を示唆したが受け入れられなかった。その後、壬辰倭乱が勃発した。1591年(宣祖24年)宗系辨誣が成就すると、黄允吉は光国原従功臣の一等級の一人として本録された。 脚注
参考
出典
外部リンク |