鶴屋喜右衛門鶴屋 喜右衛門(つるや きえもん、生没年不詳)は、江戸時代から明治時代にかけての地本問屋。全期間を通じて多数の草双紙、錦絵の作品を版行した代表的な版元で、蔦重と並び称された。3代目まで続いた。 来歴鶴喜、遷鶴堂、仙鶴堂と号す。姓は小林氏。もとは京都の書物問屋であった鶴屋喜右衛門が江戸に出店したものであり、この京都の本家は寛永年間から幕末まで続いた。万治年間に江戸へ出店しており寛文、延宝から明治期にわたって活動しており、菱川師宣の地誌、鳥居清倍、2代目鳥居清倍、鳥居清峰らの漆絵、紅摺絵に始まって浄瑠璃本、絵本、合巻などのほか、錦絵では勝川春潮、北尾政美、勝川春英、喜多川歌麿、栄松斎長喜、菊川英山、歌川広重、歌川国貞など代表的な浮世絵師の作品を多く出版している。大伝馬町3丁目、後に常盤橋御門ヨリ本町筋下ル8丁目通油町北側中程八右衛門店、茂兵衛店、元浜町善兵衛店、新大坂町および石町3丁目で営業している。2代目近房の子であった3代目鶴屋喜右衛門は歌川豊国の挿絵による自作の絵草紙『絵本千本桜』によって好評を得る。但し、これは滝沢馬琴の代作といわれる。文政12年(1829年)3月21日に起こった文政の大火によって類焼したが、同年7月19日には普請が成り、同年から天保13年(1842年)にかけて柳亭種彦作の『偐紫田舎源氏』を出版、大好評を得たが、天保の改革により弾圧を受け絶版処分となったため、これ以降は衰退に向かった。また、この間、天保4年(1833年)、歌川広重の『東海道五十三次』全55図を新興の版元保永堂とともに出版するが、同年12月に鶴屋主人が急死、天保5年(1834年)2月7日に日本橋周辺から起こった大火災によって瞬く間に店舗が延焼してしまい、これ以降、『東海道五十三次』シリーズは保永堂のみによる出版となった。 作品
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