高岡熊雄
高岡 熊雄(たかおか くまお、1871年9月29日(明治4年8月15日) - 1961年(昭和36年)12月29日)は、日本の農学者・農政学者・農業経済学者。。第3代北海道帝国大学総長。島根県生まれ。 経歴
1871年、津和野藩士・高岡道敬の次男として島根県鹿足郡津和野町で生まれた。津和野小学校を卒業後[1]、兄がいた旧制山口中学校に進学し、ここで出会った国木田哲夫(独歩)とは終生の親交を結んだ。その後兄の転勤にともなって転校し、札幌農学校(現・北海道大学農学部)予科に進学。農学校では新渡戸稲造に師事。1895年6月、札幌農学校農学科を卒業した。卒業後は、新渡戸教授のすすめで同校の研究生となった。
1896年7月、母校の札幌農学校農芸伝習科講師に就いた。1897年12月、同校助教授に昇格。1898年より新渡戸稲造の後任として農政学植民学講座を担当。1901年2月、農政学・農業経済学研究のためドイツ留学を命じられて出発。1904年]2月に帰国。帰国後は札幌農学校教授に昇格した。大学では、農政学や植民学などの講座を担当。1907年9月、札幌農学校の大学昇格、すなわち東北帝国大学農科大学となったことに伴い、以降東北帝国大学農科大学教授。 1910年11月、法学博士号を取得。再び大学の改組に伴い、1918年4月より北海道帝国大学農科大学教授。1919年2月、農科大学が農学部に改組となったことから、その後は北海道帝国大学農学部教授。1919年7月、農学博士号を取得。 1922年8月、欧米視察に出発(1923年7月に帰国)。1933年、北海道帝国大学第3代総長に就任。1934年6月1日、帝国学士院会員に選出された[2][3]1937年2月に総長を退任。北海道大学在任中は、「北方文化研究室」(学内措置で1937年設置)・「低温科学研究所」(1941年官制公布)の新設などに尽力した。なお、1923年に兄・直吉が初代札幌市長に選ばれて同市の本格的な都市開発に着手すると、学者として札幌商業会議所と密接な関係を結び、市参与・市会議員として札幌市政のさまざまな分野に関与した。
戦後の1946年9月、公職追放の対象となった( 1950年10月に解除)。1950年10月、北海道綜合開発委員会委員長をなり、北海道の開発・戦後復興に努めた。学界では、社会政策学会(1897年発足)および農業経済学会(1925年発足)会長を務めた。また、帝国農会特別議員をそれぞれ務め、日本農政の政策決定過程にも関与した。 1961年12月29日に死去。享年90。墓所は平岸霊園にある。 受賞・栄典
研究内容・業績札幌農学校出身者で新渡戸稲造・佐藤昌介に師事した。さらに留学先のドイツでゴルツ・シュモラー・ワグナーら歴史学派・社会政策学派に学ぶことによりドイツ農政学・統計学の学統を継承した(当時の札幌農学校は開校初期に主流を占めていた英米的な大農・畑作中心の農学から、ドイツ農学を導入し中小農・米作中心主義への学風の転換期に当たっていた)。 日本の農業経済分析に統計学的手法を導入、農事統計調査を通じて土地所有の「中農標準化」傾向を指摘した。これを根拠として経営規模の適正化を中心とする小農保護論を展開、さらにそれを促進する具体的方策として国内外における移植民送出と国内地主制の変革を提唱した。また小農の共同・組合組織による大量販売の有利性を主張し、産業組合(現在の農協)による農業界の革新を論じた。 北大における植民学は、「本国に対する政治的従属関係」を重視する東大・京大の植民政策学と異なり、農業移民をいかに定着させるかという「拓殖学」の性格を色濃く有していたとされるが、このような北大植民学の路線を確立したのが高岡であった。高岡から植民学講座を引き継ぎ担当教授となった上原轍三郎によれば、高岡の立場は「もし農地を(規模適正化により)沢山農民に与えるとすれば、どうしても農民が余る。余った農民は日本の国では入れないんだからどうしても海外に行かなければならない。このためには移民と植民・移植民をやらなければならない」というものであった(この点、マルサス流人口論に依拠して人口圧力による民族進出を肯定、満蒙開拓移民の旗振り役となった那須皓の立場とも若干異なる)。
高岡の下で学び、特に彼の植民学・北海道農業史研究を継承する人物としては、下記がいる。 家族・親族
著作
関連書籍
外部リンク
脚注
関連項目 |