飯村稷山
飯村 稷山(いいむら しょくざん、慶応4年3月14日(西暦1868年4月6日) - 昭和17年(1942年)6月17日)は、日本の漢詩人。秋田県仙北郡六郷村(のち六郷町)出身。隣村畑屋村生まれの高橋午山、千屋村の坂本東嶽(理一郎)とともに「仙北の三山」と称された[1][2]。 略歴・人物羽後国仙北郡六郷村飯村永助の次男として生まれた[2]。幼名は堅治、のちに粋と改名した[2]。 六郷の熊谷松陰および岡三慶に師事し、漢籍を学んだ[2]。田尻稲次郎らによって創立された東京の専修学校(現在の専修大学)を卒業後、新聞社に入社し日清戦争に従軍した[2]。上京して以来、臨済宗の傑僧中原南天棒に参禅し、玉川遠州流の茶道も学んだ[2][注釈 1]。「稷山」は師より賜った居士号である[2]。禅の同門に山岡鉄舟、児玉源太郎、乃木希典がおり、生涯を通じ交誼をむすんだ[2]。 明治35年(1902年)、帰郷して仙北郡大曲町の町立図書館に勤め、秋田県立大曲農学校で教職に就いた[2]。この間、郷土史の研究を進めた。大正13年(1924年)、六郷町で「達磨会」を結成し後進の指導にあたった[2]。やがて全国行脚も企図するようになったが、脳溢血で倒れたため断念した[2]。 六郷町付近の石碑の撰・書は稷山によるものが少なくなく、佐竹義重を顕彰する目的で六郷城跡に建てられた「通庵佐竹公館趾碑」も稷山によるものである。 昭和17年(1942年)6月17日、東京都世田谷区で死去した[2]。 主著
脚注注釈出典参考文献
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