飯尾尚清
飯尾 尚清(いいのお ひさきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国奥田城・北島城主。赤母衣衆の一人。 諱は信宗とも伝わるが、尚清が正しいとされる[3]。弘治2年(1556年)6月26日、父・飯尾定宗と共に、尾張守山城攻めに従軍。永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで父や大叔父・織田秀敏と共に鷲津の砦を守るが、今川軍に敗れて父は討ち死にし、尚清は敗走。以後は信長の馬廻となり、同年、母衣衆(赤母衣衆)に加わった[1]。石山合戦、三木合戦などでは検視役を務めた。どちらかといえば吏僚的な活躍の方が多い。 天正2年(1574年)7月の伊勢国の長島一向一揆に参戦した[4]。天正10年(1582年)、本能寺の変では長男・敏成が討ち死にした。信長の死後は、その次男・織田信雄に仕え、2200貫文を知行する。のち羽柴秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、正五位上[1]。天正18年(1590年)、従四位下、侍従に任じられる[1]。 天正19年(1591年)2月22日に死去。享年63。家督は弟・重宗(敏宗)が継ぎ、次男・宗敏は重宗の子の敏隆の養子となっている。 脚注 |