飛鳥井雅典
飛鳥井 雅典(あすかい まさのり)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の公卿、歌人、華族。官位は正二位・権大納言。従一位権大納言・飛鳥井家24代当主。先代飛鳥井雅久の子。飛鳥井家は和歌と蹴鞠を家職とする一族。 経歴幕末、廷臣八十八卿列参事件に加わったほか、武家伝奏を務めた文久3年(1863年)2月、国事御用掛となり、同年3月、賀茂社行幸に供奉し、翌月4月には石清水行幸にも供奉した。同年8月18日の八月十八日の政変に際しては参内、他行、他人面会を停められたが、ほどなく赦されて朝議に復した。慶応2年(1866年)7月には大坂城に病臥中の徳川家茂見舞の勅使を勤め、同年12月には徳川慶喜の将軍宣下に際して勅使としてこれを伝宣した。慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令によって 公武合体派として参朝を停められたが、翌明治元年(1868年)に明治天皇の元服に際して赦されたが権大納言を辞任した。明治元年(1868年)9月および翌明治2年(1869年)3月の東京遷幸に供奉し、明治4年(1871年)11月には宮内省に出仕した。 明治7年(1874年)6月18日、隠居した[1]。明治16年(1883年)薨去、59歳。 系譜
脚注
参考文献
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