顧容顧 容(こ よう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は季則[1]。揚州呉郡呉県の人。 生涯呉の丞相となった顧雍の族弟にあたる。若い頃から呉に仕え、官職は持節、鎮南将軍、荊州刺史まで至ったという[2]。 宝鼎3年(268年)、交州刺史劉俊・前部督修則らと共に交阯で暴れている反乱軍を討伐しに行き、交阯郡の都城で西晋の交阯太守楊稷と連続して3度にわたって戦ったが打ち負かされ、鬱林・九真の両郡も呉から離反して西晋に属する事となった。その後、楊稷は牙門将の毛炅・董元に顧容軍の駐屯している合浦郡を攻めさせ、両軍は合浦にある古城で交戦し、呉軍は大敗して劉俊・修則は戦死した。顧容は敗残兵をまとめて合浦郡の本拠地へ撤退したという[3][4][5]。その後は不明。 子孫家系図
参考文献脚注 |