頼采真
頼 采真(らい さいしん)は、江戸時代後期の広島藩士。諱は舜燾、字は子晦、采真は号。通称は佐一郎[1]。 略伝広島藩儒であった頼杏坪の長男、いわゆる杏坪頼家の嫡子[1]。母は藩儒加藤十千の孫にあたり、加藤静古の娘である恭子(玲瓏子)[2]。杏坪夫妻は結婚当初から杏坪の長兄夫婦である頼春水と頼梅颸、その子である頼山陽と同居しており、広島頼家の居邸である杉の木小路の武家屋敷(現頼山陽史跡資料館)で采真は生まれる[3]。のち杏坪一家は独立する[3]。 采真は儒学を父母より学ぶ[1]。杏坪の兄つまり采真の叔父にあたる春水の広島頼家、同じく叔父の頼春風の竹原頼家、彼らの友人達の儒者らと交わる。 父の杏坪は藩儒から平士として藩務についたが、采真は藩儒にはならず平士として藩に仕え始める[1]。文化5年(1808年)、藩主浅野重晟の参勤交代に隨った杏坪に連れられ江戸に向かう[4]。文化6年(1809年)帰藩。 文政5年(1822年)15石3人扶持を給せられる[5][6]。 父の杏坪の藩務に幾つか携わっている。文政元年(1818年)『芸藩通志』の編纂を杏坪が命じられた際には采真もこれに加わり、文政8年に完成している[7]。文政11年(1828年)、杏坪が三次町奉行となった際に、采真は藩命によりその勘定所吟味役格として郡町事務を務めた[8]。 天保元年(1830年)、父の杏坪が隠居、そのため采真はいわゆる杏坪頼家の家督を継ぎ知行140石を給せられ、広島に戻る[8][6]。同年、銀奉行、勘定奉行付で金銀の出納を管理する役職[9]に任ぜられ、同年藩より白島に屋敷を拝領する[8][6]。天保3年(1832年)蔵奉行[10]。 天保5年(1834年)から天保7年(1836年)まで江戸勤番[11]、天保8年(1837年)から 弘化元年(1844年)まで大阪蔵屋敷留守居役(番目付)[12]。大阪時代には当地の儒者と交わる[1][13]。弘化2年(1845年)普請奉行となった[14]。知行は190石[13]。 嘉永3年(1850年)普請奉行時に病死[1][13]。享年60[1]。墓所は広島安養院(現在の多聞院)[1]。 妻は矢野八幡宮神主香川氏の娘・かね子[13]。子は三男二女、嫡子は長男の頼正義。 家系
脚注
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