頃藤城
頃藤城(ころふじじょう)は、茨城県久慈郡大子町頃藤(常陸国に隣接していた陸奥国南端部)にあった日本の城(山城)。 概要築城は、11世紀末から12世紀初頭に芦野氏三代目の弟である芦野通定が陸奥国南端部に築いたことに始まる。築城の前後に苗字を芦野から山田に改めている。水府志料には誤字があり正しくは山田左近大夫通定である。その後は源平合戦を経て、再築は建治年間(1275年 - 1278年)といわれ、領主で常陸守護佐竹氏の庶家である小川氏の城という。別称を小川城ともいう。 佐竹義胤の庶子小川宗義が居城とし家老の神長氏、清水氏が城代を務めた。その後、上杉氏の子である佐竹義人の入嗣に佐竹氏有力庶家の山入氏が宗家に謀叛した山入の乱により、一時混乱し白河結城氏に同地一帯を奪われたものの、後に佐竹氏が奪回し、小川氏が再び城主となった。 慶長7年(1602年)、佐竹氏が関ヶ原の戦いにおいて属した西軍が敗退し、秋田転封となると小川氏も転封に随従し、頃藤城は廃城となった。 関連項目外部リンク
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