鞏
位置鞏の都城の遺跡は現在の河南省鄭州市鞏義市孝義街道の西約3キロメートルの康店村一帯にある。そのため鞏王城と呼ばれる。鞏の北面には黄河、西辺には洛水、東辺には虎牢関、南辺には嵩山がある。鞏は天然の要害でもあった。 歴史鞏は「周室卿采邑国」。鞏の国君は鞏伯。紀元前516年に晋によって滅亡した。 滅亡後晋は鞏を滅ぼすと、鞏の領域は「周王畿の地」に属しているため、周王室に献上された。 戦国時代、周朝は東周・西周国の2国に分裂した。楚と趙の2国はこの形成を利用した。東周公は鞏王城を首都として立国した(東周国)。東周国は実際には韓の附庸国であり、紀元前247年に秦の呂不韋によって滅亡した(東周の滅亡)。鞏の地は秦王政により三川郡に編入された。 史書の記載君主脚注 |