静香八郎
静香 八郎(しずか はちろう、1904年1月4日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。靜香 八郎と表記されることもある。本名は渡邊 庸太郎(わたなべ ようたろう)[1][2][3][4]。長年の実演経験を持ち、河合映画製作社、赤沢映画などの三流キネマで活躍した二枚目俳優である[1][4]。 来歴・人物1904年(明治37年)1月4日、大阪府大阪市に生まれる[2][3][4]。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』(キネマ旬報社)では、生年は「1905年(明治38年)1月4日」という旨が記されているが、誤植と思われる[1]。 幾年の実演生活を経て、1926年(大正15年)、帝国キネマ時代劇部へ入社[1][2][3][4]。主に市川百々之助(1906年 - 1978年)の悪役俳優として活躍する。1927年(昭和2年)7月28日に公開された森本登良男監督映画『恋の簪』や、同年8月13日に公開された同じく森本登良男監督映画『剣人』では初めて大役を務めたが、都合により間も無く退社[1][3][4]。 1929年(昭和4年)、谷崎十郎プロダクションに移籍するが、その傍らで森本登良男プロダクション、片岡千恵蔵プロダクションの作品にもフリー出演している[1][2][3][4]。その後、河部五郎一座で実演巡業を経て河合映画製作社へ移籍する[1][3][4]。この頃、同社に所属していた千代田綾子(本名渡邊綾子、1906年[5]/1907年[6] - 没年不詳)と結婚した[4]。1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(世界映画社)など一部の資料によれば、大阪府大阪市天王寺区細工谷54番地に住み、身体は5尺5寸5分(約168.2センチメートル)、体重は16貫500匁(約61.9キログラム)、趣味は文学と運動であり、お酒と女、中華料理が嗜好であるという[2][3]。 1931年(昭和6年)、赤沢映画へ移籍する[4]。『日本映画俳優全集 男優篇』によれば、翌1932年(昭和7年)に移籍としている[1]。以後、赤沢映画の主演俳優として活躍したが、主演作品は同年公開の赤沢大助監督映画『肉弾三勇士』『満洲大進軍』『君国のために』など、軍事映画に限られた[1][4]。1935年(昭和10年)の赤沢映画活動停止後は再び実演に戻る[1][4]。その後、1943年(昭和18年)9月30日に公開された興亜商事製作の中西卯之助・長尾史録監督映画『菊水とはに』に脇役として出演していたが、終戦後の消息は明らかになっていない[1][4]。没年不詳。 出演作品帝国キネマ演芸特筆以外、全て製作・配給は「帝国キネマ演芸」、共同製作は「市川百々之助プロダクション」、全てサイレント映画である。
谷崎十郎プロダクション特筆以外、全て製作・配給は「谷崎十郎プロダクション」、全てサイレント映画である。
森本登良男プロダクション特筆以外、全て製作・配給は「森本登良男プロダクション」、全てサイレント映画である。
河合映画製作社全て製作・配給は「河合映画製作社」、全てサイレント映画である。
赤沢映画全て製作・配給は「赤沢映画」、特筆以外は全てサイレント映画である。
フリーランス全てトーキーである。 脚注
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