青山宗祐
青山 宗祐(あおやま むねすけ)は、江戸時代前期の旗本。一時期、母方の祖父である大久保忠佐の養子となったが、養子解消して実家に戻っている[2]。 生涯慶長13年(1608年)、徳川家譜代の重臣・青山忠俊[3]の次男として誕生した。元和9年(1623年)に父が3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になった際、父と共に相模国高座郡溝郷に蟄居した。 寛永9年(1632年)、家光から許されて再出仕し、書院番となる。寛永11年(1634年)、知行300石を賜る。 寛永21年(1644年)4月9日、駿府城番衛の時に死去(寛永20年(1643年)とも)。享年37(もしくは36)。子は無く、家名は断絶した。 脚注出典
|