陳籙
陳 籙(ちん ろく)は清末、中華民国の政治家・外交官。北京政府の要人。後に中華民国維新政府に参加した。字は任先。号は止室。 事績モンゴルでの活動1891年(光緒17年)、船政学堂に入学したが、事件に巻き込まれ除籍処分を受ける。1894年(光緒20年)、鉄路総局附設鉱化学堂で学ぶ。しかし、1898年(光緒24年)に学堂が閉鎖されたことに伴い、武昌自強学堂に転じた。1901年(光緒27年)に卒業し、同学堂に仏文班教習(講師)として留まった。1903年(光緒29年)4月、欧州へ留学する。ドイツでの学習を経てフランスのパリ法律大学に入学した。1907年(光緒33年)に法学士を取得し、その翌年に帰国する。帰国後は、清朝の法部、外務部で各職を歴任した。 1912年(民国元年)4月、陳籙は北京政府の外務部政務司司長に就任する。1913年(民国2年)13月、メキシコ公使に任命されたが赴任しなかった。翌年1月に畢桂芳とともに、モンゴルのボグド・ハーン政権の事案に関する全権専使に任じられた。1915年(民国4年)6月、都護使として駐紮庫倫(現在のウランバートル)弁事大臣に任じられた。その翌年7月には、冊封専使に任命され、活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世の冊封大典を取り仕切り、政府を代表して活仏に金冊・金印を授与している。1917年(民国6年)4月、病気により、辞職した。 維新政府への参加1918年(民国7年)3月、陳籙は督弁参戦事務処外事処処長として復帰する。5月には外交部次長に就任した。同年末には、パリ講和会議に出席する外交総長陸徴祥の代理として外交総長もつとめている。1920年(民国9年)2月、次長職を離れ、駐仏全権公使に任命された。1923年(民国12年)8月、国際連盟代表を兼任している。 1928年(民国17年)7月に、陳籙は公使の職務を終えて帰国する。以後は上海で弁護士を開業した。1934年(民国23年)、国民政府の外交顧問に就任した。1936年(民国25年)には外交部条約委員会副会長もつとめている。 1938年(民国27年)、南京の中華民国維新政府に参加し、外交部部長に任命された。翌年2月19日、陳籙は上海滞在中のところを、中国国民党軍事委員会調査統計局(軍統)の工作員に襲撃され、射殺された。享年63(満61歳)。 参考文献
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