阿部茂夫阿部 茂夫(あべ しげお、1892年(明治25年)1月3日[1] - 1960年(昭和35年)8月3日[2][3][4])は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 経歴徳島県[4]徳島市富田浦町[2]に生まれる。1912年(明治45年)徳島県師範学校を卒業し[2][3]、徳島県名東郡沖洲尋常高等小学校訓導、津田尋常高等小学校訓導、津田水産補修学校訓導を務めた[4]。1919年(大正8年)早稲田大学政経科を修了[2][注 1]。 古河鉱業(現古河機械金属)に入社し[2][3]、1922年(大正11年)労働事情調査のためアメリカ合衆国へ派遣されイェール大学で学んだ[2][3]。1927年(昭和2年)に帰国後、社会民衆党に入党した[2][3]。1930年(昭和5年)全国民民衆党の結成に参画し中央委員に就任[2]。以後、全国労農大衆党常任中央執行委員・国際部長、同教育部長、社会大衆党常任中央委員・市民委員長、市民団体連合会長などを務めた[2][4][5]。また、盈進学園教員を務め、乗合自動車業の経営も行った[2]。 1937年(昭和12年)東京市会議員に選出され、同参事会員も務めた[2][3][4][5]。同年4月、第20回衆議院議員総選挙に東京府第4区から社会大衆党公認で出馬して当選し[2]、衆議院議員に1期在任した[4]。 戦後、盈進学園校長を務めた[2][3]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に東京都第7区から日本社会党公認で立候補したが落選した[6]。 脚注注釈
出典参考文献
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