阿彌神社 (阿見町中郷)
阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)は、茨城県稲敷郡阿見町中郷二丁目25番[1](旧信太郡阿見村)にある神社。明暦棟札では「大明神」、江戸中期の資料では「鹿島明神」と呼ばれていた[2]。阿見町竹来にある同名の阿彌神社とともに、延喜式神名帳の常陸国信太郡二座の一社(小社)「阿彌神社」の論社(式内社)である。近代社格制度における社格は旧郷社。 祭神配神の十三柱は、明治末期の神社整理により合祀された神々である[4]。
十握神社は単立社(阿見町廻戸)として存続している。元々は竹来阿彌神社と関連の深い神社である。 境内社明治神社誌料には、下記の7社が記載されている。 社殿の右殿側(西側)裏手には、境内社の石祠、又は合祀により移築されたと思われる石祠が並んでいる。 境内社のうち筆頭の規模を持つものは、左殿側(東側)にある稲荷神社である。 上記のほか、境内西側に旧霞ヶ浦海軍航空隊の営内神社であった霞ヶ浦神社の本殿(神明造)が保存されている[2]。廃絶しているため、正式な境内社に数えられたことはないが、社殿の規模としては筆頭格である。 祭礼例祭は10月1日に行われる。 神事以外では、11月下旬に酉の市が開かれる。 霞ヶ浦神社本殿参道の西側にある神明造の社殿は、霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内にあった霞ヶ浦神社の本殿である[2]。 大正11年(1922年)、阿見町に霞ヶ浦海軍飛行隊が創設された。当初は航空機の整備及び操作に関する技術が不十分だったこともあり、訓練中の死亡事故が多発していたが、勤務中に殉職した者は戦没者(戦死病没者)とは区分され、正式には靖国神社には祀られなかった。大正14年(1925年)、航空隊の副長兼教頭であった山本五十六は、こうした航空殉難者を祀る神社の創祀を発案した。航空殉難者を祀る営内神社としては、最古の事例とされている[5]。なお、土浦全国花火競技大会も、同年の大正14年(1925年)、神龍寺(土浦市文京町)住職の秋元梅峯が、航空隊の航空殉難者の慰霊と、関東大震災で疲弊した商店街の復興への願いを込めて花火を打ち上げたことを起源としている[6]。 大正14年10月23日(1925年)、神田明神宮司を斎主に招き、航空隊創設以来、犠牲となった25名の英霊の招魂祭が執行された。大正15年3月(1926年)、神明造(建坪一坪)の社殿が竣工し、同年4月30日、霞ヶ浦神社鎮座祭が執行された。当時は敷地内に600余坪の神苑を有していた。「之に要したる労力は特に専門技術を要するの外は悉く隊員の奉仕にして経費千八百余円全く隊員の拠出に拠れり」(霞ヶ浦神社建設の由来)[5]とあり、創建は隊員の奉仕によるところが大きかった。終戦までに霞ヶ浦神社に合祀された英霊は5,573柱、霊璽録(霊名録)は16巻であった[7]。 敗戦後、霞ヶ浦神社の本殿は、廃棄を免れるため阿彌神社の境内に移された。霊璽録は農家に分散して秘匿された後、昭和30年12月(1955年)、旧海軍航空殉職者慰霊塔奉賛会により海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立され、その基部に納められた。この慰霊塔は阿見町立中郷保育所付近にある。 土浦海軍航空隊(現在の陸上自衛隊武器学校)にも同旨の土浦航空隊神社があり、有志により社殿が民家に、大鳥居がつくば市小白硲(こじらはざま)の鹿島神社に移築され、現存している[8] 移築により破棄を免れた営内神社には、戦後も慰霊祭が続けられた例もあるが、霞ヶ浦神社の場合は神体(霊璽録)が戻されることはなかった。そのため移築以来、形式的には廃絶状態になっており、注連縄や榊も見られない。ただし、社殿の区画が整備され、屋根がトタン板で補強修繕されているなど、一定の保存活動は行われている。また、一際目立つ社殿であることから、上記の経緯を把握しているか否かにかかわらず、参拝の対象となる例もあるものと思われる。 由緒正伝社伝は、現在の阿見町の自治体名にも承継されている「阿彌」の地名伝承と、「阿彌神社」の創祀伝承により構成されている。戦前戦後を通じた正伝であり、境内案内板のほか、明治神社誌料等の古い誌料にも記載されている。
豊城入彦命の言葉にある「普都」とは、常陸国風土記の信太郡の条にある「普都大神」の神名である。この神話は「高来里」の旧事として記載されている。また、社伝では「両神」としているが、普都神話において葦原の中つ国の荒ぶる神を平定(言向け)し、天に還った神は、普都大神一柱である。 阿彌は延喜式神名帳の「阿彌神社」、和名類聚抄の「阿彌郷」[9]に遡る古い地名であるが、現代に伝わる常陸国風土記(抄本)には登場しない。その字義については、新編常陸国誌は「阿彌社よりして郷名と成れるにや、又郷名を以て社に名づけるにや、名義詳ならず」としている[10]。 新編常陸国誌は、式内の阿彌神社が竹来阿彌神社であることを前提としつつ、古代の「高来里」の領域と、延喜式以後の「阿彌郷」及び「高来郷」の領域には交錯する部分があったのではないかと注記している。これを当社の立場から見れば、豊城入彦命が訪れた地は当時「高来里」であって、その旧事(普都神話)に言及した地が、後世の「阿彌郷」になったと解することもできる。なお、社伝は豊城入彦命の「普都大神の登天の地とは、蓋しこの地のことであろう」という趣旨の言葉と、その言葉があったという事跡に基づき豊城入彦命を奉斎したという創祀の由来を伝えるものであり、当地を普都大神の登天の地と主張するものではない。 明治神社誌料は「命(豊城入彦命)は大網公の始祖なれば、蓋本社は其の後裔の祀る所なるか」と、大網公と関連付ける考察を付している。この「あみ」と「大網公」の類似性に着目する考察は、江戸末期の常陸国郡郷考に既に見えるものである。 別伝式内社調査報告(巻11, 1976年)には、下記を大略とする別伝が記載されている[11]。江戸末期から明治期にかけての地誌、神社誌料及び現在の境内案内板には、この別伝は言及されていない。よって、これは戦前戦後を通じて公的に語られてこなかった異伝である。
新編常陸国誌に、阿彌について「寛文御朱印には、網に作り、元禄郷帳には、安見に作れり」とあり、歴史的に地名の「あみ」を「網」と表記する事例は存在した。ただし、現在の当社には水に関する信仰又はその痕跡はみられない。本殿は(霞ヶ浦がある北ではなく、中郷集落のある)南を向いており、社地は霞ヶ浦湖岸の段丘崖から若干離れた場所にある。ただし、中郷集落の区域に限れば、霞ヶ浦により近い北方に位置している。 豊城入彦命の合祀については、海信仰、海神信仰からの変化とみれば正伝と重なる部分もあるが、創祀の部分については明治期の誌料には不自然なほど取材がない。式内社論争の影響で口碑の一部が脱落したか、明治末期に合併した神社の伝承や民話が関与している可能性も考えられる。 中近世以降正伝及び別伝に関わらず、近世の祭神は武甕槌命だった[2]。
安永年間(1772-1778年)、竹来阿彌神社、熊野権現とともに式内の阿彌神社を巡る式内社論争が起こり、文政12年(1829年)に寺社奉行の裁許を仰ぐに至った[2]。現在は、中郷と竹来が論社となっている。熊野権現は江戸時代においては有力な社であったが、神主が途絶えたことにより衰退し、中郷阿彌神社に合併された。当社の北方にある舌状台地を「立の腰の権現山」といい[12]、小字に熊野脇という地名も残っている。 明治以前の地誌等の式内社論争に関する判断は、下記の通りである。
地理的には、阿見と竹来は、少なくとも和名類聚抄(阿彌郷、高来郷)の時代から、昭和30年(1955年)の舟島村の阿見町への編入まで、その領域が重なったことはない。阿見は延喜式神名帳の「阿彌神社」、竹来は常陸国風土記の「高来里」にみえる、それぞれ由緒のある地名を承継してきた。よって、竹来社は昭和中期まで他の地域の地名(阿見にはない阿彌神社)を称していたことになる。 天明元年(1781年)、式内社論争を受けて「大明神」から「阿彌神社」に社号を変更した。この時期に豊城入彦命一柱を祀る社としての社伝が固まったと考えられる[2]。新編常陸国誌は、阿彌郷の字義に関する考察として「今の(竹来阿彌神社の)社説には、大網公の祖、豊城入彦命を祭ると云へり、さらば社の名より郷に名づけしと聞ゆれど、思ふに是説古伝にてはあるべからず、中世神道者流の説より出でしものと見ゆれば、信じ難し」と付け加え、郡郷考に記述されたような考察が伝播していること、及びこれを(竹来阿彌神社の社説としては)信じ難いとする評価を付記している。ただし、新編常陸国誌(明治期の栗田による補筆部分)が郡郷考に記載された中郷社の存在を認識していない点は不自然でもあり、豊城入彦命の注記については、竹来社と中郷社を混同し、中郷社の社伝(豊城入彦命を祭神とし、社名と郷名を関連付けるという2点に共通項がある)を竹来社のものとして記載した可能性も考えられる。 明治7年(1874年)、近代社格制度において郷社に列格した。 社地は霞ヶ浦、清明川、花室川支流に挟まれた台地上にある。中郷集落の北方の離れた位置にあり、旧軍関連施設の開発地域にも重ならなかったため、昭和末期まで主要道路も接続しないような畑中にあった。この周辺環境が一変したのは、平成に入ってからである。現在は社地の南北は幹線に、東西は商業地及び住宅地になっている。
周辺の神社
脚注
参考文献
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