阿倍駿河
阿倍 駿河(あべ の するが)は、奈良時代の貴族。大納言・阿倍宿奈麻呂の子。官位は散位従四位下。 経歴和銅4年(711年)に従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。 養老4年(720年)正月に従五位上に進む[1]。同年9月28日に東北地方で蝦夷の大規模な反乱が起こり、陸奥国按察使・上毛野広人が殺害された。翌29日に駿河は鎮狄将軍として節刀を授けられ、征夷将軍・多治比縣守と共に軍を率いて東北地方へ遠征する。養老5年(721年)4月に乱を鎮圧して京に帰還[2]。その後、正五位下に叙せられた。 神亀元年(724年)聖武天皇の即位後まもなく正五位上に昇叙され、神亀3年(726年)従四位下に至る。 官歴『続日本紀』による。
系譜
脚注参考文献
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