阿倍沙弥麻呂
阿倍 沙弥麻呂(あべ の さみまろ)は、奈良時代の公卿。名は佐美麻呂・沙美麿・益麻呂[1]とも記される。系譜は明らかでないが、大錦下・阿倍名足の子とする系図がある[2]。官位は正四位下・参議。 経歴天平9年(737年)従五位下に叙爵し、翌天平10年(738年)少納言に任ぜられる。その後はほぼ3年おきに昇叙されるなど聖武朝で順調に昇進し、聖武天皇退位前の天平21年(749年)に従四位上まで昇進する。またこの間左中弁を務めた。 天平勝宝7歳(755年)に防人を監督する勅使として大宰府に下向するが、その際に詠んだ和歌作品1首が『万葉集』に採録されている[3]。孝謙朝では一時昇進が止まるが、天平宝字元年(757年)正四位下・参議に叙任され、阿倍氏としては中納言・阿倍広庭以来25年振りに公卿に列すが、翌天平宝字2年(758年)4月20日卒去。最終官位は参議中務卿正四位下。 官歴注記のないものは『六国史』に基づく。
脚注出典関連項目
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