阿保氏阿保氏(あぼうじ/あほうじ/あおうじ)は、「阿保」を氏の名とする氏族。 第11代垂仁天皇皇子を祖とする皇別氏族。氏祖を息速別命と於知別命とする2流があり、ともに阿保朝臣姓を称した。 阿保氏 (息速別命後裔)
出自祖とされる息速別命(いきはやわけのみこと)[1]は垂仁天皇と妃薊瓊入媛との間の皇子。『新撰姓氏録』によると、幼少の時に天皇が息速別命のため伊賀国阿保村(三重県伊賀市阿保)に宮室を築いて同村を封邑として授け、子孫はその地に住居した。允恭天皇期、息速別命4世孫の須珍都斗王(須禰都斗王とも)に対し、地名に因み「阿保君」の姓が与えられたのが初めとされる。天平宝字8年(764年)には、公(君に同じ)を改め「阿保朝臣」の姓が与えられた[2]。 概要雄略天皇期、須珍都斗王の子・阿保意保賀斯(-おおかし)は武勇に優れたため、「健部(建部)君」の姓を授かった。しかしながら、延暦3年(784年)に子孫の健部人上が奏上し人上らは「阿保朝臣」に戻すことを許され、黒麻呂らには「阿保公」の姓が下賜された[3]。この改姓には職業由来の姓から土地由来の姓にすることで、伊賀の地における伊賀朝臣(大友皇子(弘文天皇)の生母である伊賀宅子娘を輩出し、天武天皇11年(682年)に朝臣を授けられる)の台頭に対抗する意図や律令制の官人として生きていく過程で「先祖代々の仕奉」の実績が意味をなさなくなったことなどが背景としてあったとみられている[4]。一族は伊賀国造を務めた。 系譜
系譜参考
阿保氏 (於知別命後裔)
出自祖とされる於知別命(おちわけのみこと)[5]は垂仁天皇と妃苅幡戸辺との間の皇子。『古事記』によれば小月之山君(小槻山君)・三川之衣君の2族の祖である[6]。小槻山君は近江国栗太郡(現在の滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族であったが、『三代実録』によると貞観15年(873年)小槻山今雄・有緒らが京に居を移した[7]。そして貞観17年(875年)今雄・有緒・良眞らに「阿保朝臣」の氏姓が下賜された[8]のが初めとされる。 なお、この『三代実録』の条には「息速別命之後也」とあり、維新後小槻氏嫡流の壬生家が提出した『壬生家譜』でも、これに従い息速別命の子孫としている。栗田寛によると「息速別命」と記してあるのは後世の文献であることから、転写の際の誤写であろうとしている[9]。一方、阿保朝臣姓を得るため、上記の阿保氏の祖である息速別命を利用して仮冒したのではという説[10]もある。 概要今雄が右大史・算博士を務めるなど史・算道に官職を持つ家柄であった。子の経覧も左大史・算博士を務め、『古今集』に歌が残っている。 しかしながら、別子・当平と糸平の代で「小槻宿禰」とさらに改姓し、両人も算博士を務めた。姓を朝臣から格下の宿禰に落とした理由は定かでなく、当平と糸平が今雄の実子ではなかったのではないかとする説[11]もある。その後、史の重職と算博士は小槻氏に継承され、小槻氏は官務家として発展していく。 系譜
系譜参考脚注
外部リンク
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