阮元阮 元(げん げん、拼音: 、乾隆29年1月20日〈西暦1764年2月21日〉 - 道光29年10月13日〈西暦1849年11月17日〉[1])は、中国清代の政治家・考証学者。地方官として功績を残すと同時に、学者として多くの編纂事業も手掛けた。号に文達(阮文達)、揅経老人、雷塘庵主など。 略歴1764年、揚州府儀徴県に生まれる。本貫は揚州府甘泉県槐泗(現在の江蘇省揚州市邗江区槐泗鎮)。 1789年、科挙に合格して進士になる。官僚としては山東・浙江の学政、浙江・江西・河南の巡撫の任についた。とくに浙江には足かけ10年ほど着任して、李長庚らとともに海賊の取りしまりを行った[2]。また、西湖の浚渫事業を行い、そのときに出た泥を集めて築いた湖内の島は「阮公墩」の名で現在も残る。 1817年からは、広州で両広総督をつとめる。前年にウィリアム・アマーストが三跪九叩頭の礼を拒否する事件が起きたばかりであり、阮元は砲台を築いてイギリスに武力で対抗することを進言した[2]。 1826年からは、雲貴総督をつとめる。1835年には体仁閣大学士の官職についた。没後、文達の諡を贈られた。 浙江時代に「詁経精舎」、両広総督時代に「学海堂書院」という書院を建てた。やがて清末に至っては、前者には兪樾・章炳麟、後者には梁啓超といった、優れた学者あるいは後の革命家が所属することになる。 著作阮元の著作は非常に多いが、とくに、自身の幕府(政務上の秘書組織)を活用して作った巨大な編纂物によって現在も名が知られる[3]。
また、各地の地方志の編集や重刊も行い、土地ごとの詩文集を編纂した。 金石学についても貢献があり、『山左金石志』[7]、『両浙金石志』、『積古斎鐘鼎彝器款識』[8]などの著書がある。 文集に『揅経室集』[9]がある。 脚注関連史料
外部リンク
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