長野高一長野 高一(ながの たかいち、1893年(明治26年)3月19日[1] - 1974年(昭和49年)3月1日[1][2])は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 経歴愛媛県[2]越智郡清水村[3][4](現今治市[1])で長野市太郎の五男として生まれる[5]。私立大成中学校(現大成高等学校)で学んだが1911年(明治44年)に中退し[1]、以後独学した[6]。 1915年(大正4年)自転車製造業を営む[5]。1922年(大正11年)東京自転車同業組合を創立して組合長に就任し、自転車税撤廃運動を推進した[1]。1925年(大正14年)下谷区会議員に選出され[1][2]、1928年(昭和3年)東京府会議員、1932年(昭和7年)東京市会議員にそれぞれ就任し[1][2][5]、中小企業の発展に尽力した[1]。その他、鶴翼金山取締役、理研アルマイト工業取締役、日本アガー取締役、江東天然瓦斯取締役、ウブラ工業取締役などを務めた[2]。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に東京府第2区から立憲民政党公認で出馬して初当選[1][2][5]。以後、第21回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2]。この間、鉄道省委員、小磯内閣・農商参与官、逓信省委員、翼賛政治体制協議会政調内務委員・商工兼務委員、大日本興亜同盟主事などを務めた[2][4]。 戦後、翼賛政治体制協議会推薦議員のため公職追放となった[1][7]。追放解除後、東京都第1区から第25回、第27回、第28回総選挙に、東京都第8区から第31回総選挙に立候補したがいずれも落選した[8]。上野信用金庫理事長、東京都信用金庫協会副会長、全国信用不動産取締役、朝日信用金庫理事長、上野観光連盟会長などを務めた[1][2]。 伝記
脚注参考文献
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