長谷川零余子長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年(明治19年)8月20日 - 1928年(昭和3年)7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。 群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身[1]。本名は長谷川諧三(旧姓富田)。東京大学薬学科専科を卒業。 16歳(1901年)より俳句をはじめ、1905年新聞「日本」「万朝報」に投句し、「日本」の選者河東碧梧桐の知遇を得る。1906年ホトトギス例会に出席するようになる。1912年、高浜虚子に請われてホトトギス編集部に入る。1913年「ホトトギス」の「地方俳句界」の選者となる。1914年「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)の選者。1921年「枯野」創刊し主宰する。1926年講演概要筆記「立体俳句論」を「枯野」に掲載。幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た。1928年、山陰地方への旅行から帰った後に発熱し、7月27日に東京府東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)の自宅において42歳で死去[1]。墓所は杉並区福相寺。 主な著書
脚注
参考文献
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