長谷川堯長谷川 堯(はせがわ たかし、1937年6月16日 - 2019年4月17日[1])は、日本の建築史家、建築評論家。武蔵野美術大学名誉教授。建築学会賞受賞。島根県旧八束郡玉湯村(現松江市)出身。長男は俳優の長谷川博己。 来歴島根県八束郡玉湯村(現松江市)に生まれる。生家は玉造温泉の老舗旅館『保性館』を営んでいた(現在は経営権をホテルマネージメントインターナショナルに譲渡)。島根県立松江高等学校(現・島根県立松江北高等学校)卒業後上京、早稲田大学第一文学部で美術史を専攻、卒業論文でミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエらを論じ、1960年同大学卒業後、卒業論文が雑誌『国際建築』(第27巻8号・1960年8月号)に掲載され、評論活動をスタートする。近代建築の記念碑性、合理性を疑う論考で知られ、1972年に著書『神殿か獄舎か』で建築界に衝撃を与えた[2]。1975年『都市廻廊』で毎日出版文化賞。1977年武蔵野美術大学助教授、1979年『建築有情』でサントリー学芸賞受賞。1982年武蔵野美術大学教授。1986年ごろの一年間、家族でロンドンに居住した経験がある。1986年日本建築学会賞受賞。村野藤吾の研究などで知られた。2019年4月17日、がんのため死去、81歳没[1]。 歌舞伎役者の坂東玉三郎とは、坂東が20歳の頃に雑誌の特集で知り合い、旧知の間柄だった[3]。 著書
共著脚注
外部リンク
|