長幡部神社 (常陸太田市)
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は、茨城県常陸太田市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。 祭神祭神は以下の2柱で、『常陸国風土記』に記される長幡部一族の祖神である[1]。
歴史長幡部について社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す[2]。文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す[2]。また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという[2]。 創建当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る[3]。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)[注 1]が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝える。 当社は古墳群(幡山古墳群)の中に位置しているが、この古墳群は当社の祭祀氏族のものと見られ、その出土品から当社ならびに祭祀氏族の性格が指摘される[2]。 概史『常陸誌料郡郷考』によれば、神階は仁寿元年(851年)に正六位上[注 2]、のち10度の贈位により明応10年(1501年)に正三位に達したという[3]。平安時代中期の『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 長幡部神社」と記載され、式内社に列している[注 3]。常陸国と長幡部の関係に関しては、『延喜式』主計式には常陸国の調として「長幡部7疋」の記載があるほか[2]、『類聚国史』巻54で弘仁8年(817年)に「長幡部福良女」の名が見える[2]。 康平年間(1058年-1065年)に源頼義が奥羽出兵の際に戎旗1旗を奉納して戦勝祈願を行い、凱旋時に鹿島・三島・神明・若宮の「四所明神」を勧請したという[3]。この四所明神が盛大になって「長幡部神社」の社号を失い、さらにのちには「鹿島明神」と称するのみになったと伝える[3]。 中世以降は「小幡足明神」のち「駒形神社」といった[3]。延享年間(1744年-1748年)に至り、古老の口碑により旧号の「長幡部神社」に復した[3]。当社は水戸藩からの崇敬も篤く、除地4石が許されていた[3]。 明治6年(1873年)、近代社格制度において郷社に列した[1]。 関係地
祭事
現地情報所在地 周辺
脚注注釈 出典 参考文献
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