長島又男長島 又男(ながしま またお、1904年1月 - 没年不明)は、日本のジャーナリスト。機関紙連合通信社設立者、日本機関紙通信社元理事長 来歴・人物埼玉県北足立郡小谷村(現・鴻巣市)に生まれる[1]。旧制埼玉県立熊谷中学校[2]を経て、早稲田大学政治経済学部に進学した[1]。しかし、大山郁夫に絡んで[1]、在学中の1927年に大学を中退する[3]。 1929年、新聞連合に加入する[4]。1936年、同盟通信社に入社し、南方部長を務める[4]。 1945年の日本の敗戦後、同盟通信社はGHQの指令により解散となる[5]。長島は、解体に伴って設立された共同通信社に移り、解説委員長となる[6]。同年、民報社を設立して取締役となり[1]、東京都で第二次世界大戦後最初に創刊された夕刊紙である[7]『民報』を創刊して主筆を務めた[3]。 廃刊後の1948年、機関紙連合通信社を設立して『連合通信』を創刊したが、GHQにより発刊停止とされる[3]。その後、日本機関通信社理事長、日本ジャーナリスト会議評議員、日ソ協会常任理事などを務める[3]。 脚注
関連文献
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