長岡謙吉長岡 謙吉(ながおか けんきち、天保5年(1834年)- 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、幕末期の土佐藩出身者。海援隊の隊員の一人。別名は今井純正、敦美、恂。字は子行。号は懐山。 生涯高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の長男として生まれる。母親は長岡郡仁井田村小島氏の娘で、坂本龍馬の継母・伊予の縁者であった[1]。幼少期は河田小龍の下で蘭学に励んだ。その後は嘉永元年(1848年)に大阪にて儒医に入門する[1]などして、安政6年(1859年)には家業の医師を継ぐため、長崎で二宮敬作に医学を学ぶ(後年、二宮の師であるシーボルトが再来日した際には英語や国際法の教えを受けた)。しかしこのときに、藩からキリスト教に傾倒したと疑われて帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居、後に城下禁足を命じられた。 その後に罪を許され、高知城下から東にある鹿児地区にて医者として活動し、名医としての評判を得ていたが、やがて脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。龍馬は長岡の文才を高く評価し、文士として海援隊の通信文書の作成や、いろは丸事件の顛末書の起草[2]など、事務処理のほとんどを長岡に一任していたという[要出典]。慶応3年(1867年)、夕顔丸に坂本龍馬や後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化したとされる[3][4]。また、長崎におけるキリシタン問題を論考してまとめ上げた『閑愁録』を出版している。 同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。慶応4年(1868年)1月22日には高知藩では琴平に鎮撫所を置いて社領と旧幕領を管し、長岡謙吉が支配したので日柳燕石がこれを補佐した。戊辰戦争では、海援隊を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島などを占領した。明治2年(1869年)当時交友のあった水戸藩士吉成勇太郎が出版した藤田東湖『弘道館記述義』に序文を書いた。明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治5年(1872年)に東京にて若くして死去した。享年39。墓は増上寺の塔頭の一つ、安養院にある。 「船中八策」と関連する『藩論』の著者でもある[要出典]。 逸話
作品テレビドラマビデオゲーム脚注
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