長井貞広長井 貞広(ながい さだひろ)は、大江姓長井氏の人物。鎌倉時代と南北朝時代に一人ずついる。 長井貞広 (鎌倉時代)
長井 貞広(ながい さだひろ)は、鎌倉時代後期の武将。長井時秀の子で長井宗秀の弟[1]。 文永8年(1271年)に生まれ[2]、のち元服時に執権の北条貞時より偏諱を受けて貞広と名乗る。延慶元年(1308年)9月[3]、同3年(1310年)10月[4]に東使として上洛、この段階では既に出家していたようである。正和3年(1314年)には政所執事の補佐となる[5]。元亨3年(1323年)6月13日、53歳で死去[6]。 『尊卑分脉』に「玉葉風雅等作者」とあり、歌人でもあったようである。 脚注
参考文献
長井貞広 (南北朝時代)
長井 貞広(ながい さだひろ)は、南北朝時代の武将。備後国人長井氏5代目当主。長井貞頼の子。 北朝の九州探題今川了俊に従い九州へ下向、九州を転戦して南朝勢力と戦ったが、水島の変で今川軍が撤退した最中に南朝の反撃を受け、筑後山崎で戦死した。建徳2年/応安4年(1371年)に安芸国人毛利元春の五男広世を養子に迎えていたため、長井氏の家督は広世が継承した。 参考文献
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