銭鎮漢
銭 鎮漢(チョン・ジンハン、1901年11月5日 - 1972年4月22日)は、韓国の労働運動家、政治家である。制憲および第2・3・5・6代国会議員、初代社会部長官。本貫は聞慶銭氏、号は牛村[1]。 韓国の近代協同組合の先駆者である銭俊漢は兄[2]。娘婿の鄭在哲と外孫の鄭文憲も元国会議員[3]。 略歴学歴
議員活動
経歴
人物略伝己未育英会の選抜で日本内地へ留学中の1926年6月、留学生を中心に「協同組合運動社」を組織した。そして協同組合運動の理論研究に取り組む傍らで、朝鮮に宣伝隊を派遣して組織作りに取り組んだ。1927年1月、彼の実兄である銭俊漢によって慶尚北道尚州咸昌面に「咸昌協同組合」が設立され、全国各地に同様の組織が相次いで設立された。28年に帰国後、彼は「協同組合運動社」本部をソウルに移して協同組合運動に取り組む始めたが、同年、治安維持法違反で逮捕され、2年間服役した。出獄後に咸鏡南道甲山郡に学校の教員として赴任したが、不穏分子として追放され、その後も数回にわたって拘禁され、1945年8月の解放まで金剛山、五台山などで隠遁生活をした[1]。解放後、ソウルに戻って「協同組合社」を再建、委員長に就任した。翌46年には大韓労働総連盟委員長に就任、48年の制憲議会選挙に出馬して当選を果たし国会議員となり、以後通算5期務めた。48年8月に大韓民国政府が発足すると、社会部(現大韓民国保健福祉部)の初代長官に就任した。1949年にロンドンで開催された国際自由労働組合総連盟発足大会に参加し、理事に選出、同時に同連盟のアジア地区副議長にも選ばれた。1951年12月、釜山の朝鮮紡織争議により李承晩と決別した[1]。1955年には労農党を、60年には韓国社会党を結成するなど、韓国労働運動の先駆者、進歩主義政治家として活動した。 脚注
参考文献
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