金関丈夫
金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。 経歴
1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれた。幼少期を四国で過ごしたが、小学6年の時に岡山に移った。松江中学校を経て、第三高等学校に進んだ。西洋文学や日本の古典文学に関心を持っていたが、父の反対もあり文系ではなく医学部進学を目指すようになった[1]。1919年7月に卒業し、京都帝国大学医学部解剖学科に入学。1923年7月に卒業した。
卒業後は、足立文太郎教授が率いる解剖学教室助手に採用された[2]。足立は日本における軟部人類学の先駆け的な存在であり[3]、その助手を務めつつ、足立の勧めにより同大学の病理学者清野謙次や文学部考古学教室の濱田耕作の指導も受けた。 1925年4月、同解剖学教室助教授に昇格。1930年9月に学位論文『琉球人の人類学的研究』を京都帝国大学に提出して医学博士号を取得した[4]。
1934年、台北医学専門学校教授となった(1936年に台北医学専門学校は台北帝国大学医学部に改組)。その1934年から1936年まで在外研究を命じられ、アジアや欧州をめぐり、パリの人類学研究所に留学。終戦後も中華民国国立台湾大学教授として台湾に留まり、1949年8月に引き揚げるまで教学にあたった。ちなみに、戦争中、金関丈夫の自宅は、米軍の空襲目標から外されていたと言われている。[要出典]
1950年3月、九州大学医学部教授となった。1960年に九州大学を定年退官。同1960年4月からは鳥取大学医学部解剖学教室教授となり、1962年4月からは山口県立医科大学(現:山口大学医学部)教授を務めた。1964年4月に帝塚山大学教授に就任し、1979年まで人類学調査を継続的に行っていた[5]。1983年、奈良県天理市で死去した[6]。 受賞・栄典研究内容・業績人類学者として
随筆・小説幼少の頃から文学好きであった。「山中源二郎」(やまなかげんじろう)名義で著述を行うこともあり、また「林熊生」(りんゆうせい)、蘇文石(そぶんせき)の筆名で小説やエッセイを残している。文芸誌『九州文学』にも長年にわたって寄稿していた。 家族・親族著作
資料脚注
|