金奉律
金 奉律(1917年12月6日-1995年7月19日[2]、キム・ボンリュル、김봉률)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人。ソ連派に所属。金鳳律とも表記される。 経歴平安北道に生まれる[3]。ソ連に移り、1936年9月にレニングラード大学文科を卒業[3]。コルホーズ議長[4]。しかし成績が悪かったためコルホーズから追い出された[5]。1942年、ソ連軍に入隊[1]。第88独立旅団に配属[4][5]。旅団内では一般兵士として服務していたが、人情があり部隊規律によく従っていた[5]。 1945年9月、第88旅団隊員と共にソ連軍船のプガチョフ号に乗船して9月19日に元山港に入港[6]。金一が新義州党委員長の時にその下で宣伝部長であった[5]。この事で金一からよく目をかけられ、後の金日成体制下でも生き残ることができた[5]。 1946年9月、第1師団砲兵副師団長[7]。 1947年、平安南道价川保安幹部学校副司令官[3]。 1948年3月、朝鮮労働党平安北道委員会組織部長[3]。同年9月、民族保衛省砲兵指揮局(局長:武亭)第1副局長[8]。 1950年、砲兵司令官(少将)[9]。同年5月末、作戦局長兪成哲上級大佐、工兵局長朴吉南大佐、砲兵参謀長鄭学俊大佐、作戦副局長尹相烈大佐、通信の李鍾仁大佐、偵察の崔遠大佐、空軍の王連大佐、タンク部隊司令官崔表徳少将、第105戦車旅団長柳京洙少将、兵站の鄭(名は不明)などと共にソ連軍顧問が作成した作戦計画の翻訳を行った[9]。 1950年6月23日、前線司令部砲兵局長[10]。 1952年4月、中将[3]。 1954年8月、砲兵参謀長[3]。 1955年8月、ルーマニア解放11周年記念式典に参加[3]。 1956年4月、労働党中央委員会候補委員(第3回党大会)[3][11]。 1957年8月、民族保衛副相[3]。 1958年6月、ソ連やチェコスロバキアを訪問[3]。 1960年10月、大将[3]。 1962年10月、最高人民会議第3期代議員当選。同年11月、民族保衛副相再任[3]。 1967年11月、最高人民会議第4期代議員当選。 1972年12月、最高人民会議第5期代議員当選、人民武力部副部長[7]。 1982年11月、最高人民会議第7期代議員当選。 1986年11月、最高人民会議第8期代議員当選。同年12月、朝鮮労働党中央委員会委員[7]。 1990年5月、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員[7]。 1995年3月、朝鮮労働党中央軍事委員会委員[7]。 1990年4月、最高人民会議第9期代議員当選。 1992年4月、次帥。 1995年7月19日、病死[7]。 勲章脚注
参考文献
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