野村重臣野村 重臣(のむら しげおみ、1901年 - 1954年)は、民法学者・政治評論家。大日本言論報国会理事。 経歴石川県出身[1]。同志社大学法学部政治科を卒業し同大助教授となるが、右翼的・国粋主義的な言論について学内で反発を呼び、1936年『同志社論叢』に寄稿した論文「日本国民社会科学の建設と国体の真実」が不掲載となったことをきっかけとして林要・田畑忍・松山斌を左翼偏向と糾弾し、同僚の古谷美貞と計らって林らの解雇を要求。これに対し湯浅八郎総長は林を馘首するものの、その一方で古谷ともども野村も大学を解雇される。 その後も野村は学外で右翼団体や配属将校を巻き込みながら湯浅や同志社内のリベラル・左派系の教員への攻撃を続け[2]、翌1937年には瀬川次郎・村井藤十郎両教授らが野村に同調する形で湯浅総長に上申書を提出。湯浅総長と憲兵司令官の中島今朝吾とで善後策を協議した結果、具島兼三郎と林信雄が解雇・田畑が休職処分となった[3][4]。 同志社大学退職後は右翼的著述やラジオでの時事解説に専念し、国民精神総動員本部調査部長などを歴任。特に反ユダヤ主義のイデオローグとして名を馳せ、1942年に言論報国会が発足すると理事に就任した。 著書
共著註記
参考
|