醍醐冬基
醍醐 冬基(だいご ふゆもと)は、江戸時代前期から中期の公卿。醍醐家の祖となった。 生涯一条昭良の次男として、慶安元年(1648年)に生まれる。延宝2年(1674年)に正五位下に叙任。延宝7年(1679年)に従三位左近衛中将となり公卿に列する。同年、従弟にあたる霊元天皇から「醍醐」の家名を下賜され、一条家から分家した。醍醐家は清華家の家格が認められ、江戸幕府の将軍徳川家綱からは300石の知行地と本院(後水尾法皇)附の旗本岡部正綱の屋敷が与えられた[1]。 その後、権中納言・踏歌節会外弁・左衛門督・右兵衛督を経て、天和3年(1683年)に立太子した朝仁親王(東山天皇)の春宮権大夫となった。貞享元年(1684年)には権大納言兼務。貞享4年(1687年)、皇太子朝仁親王の即位に伴い春宮権大夫を辞する。元禄7年(1694年)には正二位へと昇る。元禄10年(1697年)に権大納言辞職。同年に薨去、享年50。 絵を良くしたとされるが、現存作品は『源氏物語画帖』(三井記念美術館蔵)など少数しか残っていない。 家族・親族系譜醍醐家醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。 →詳細は「醍醐家」を参照
一条家一条家は、九条道家の子である一条実経を始祖とし、摂家の一つであった。 →詳細は「一条家」を参照
皇室との関係後陽成天皇の男系二世子孫(孫)である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の子。 脚注参考文献
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