都御酉
都 御酉(みやこ の みとり)は、平安時代前期の貴族。姓は宿禰のち朝臣。都良香の近親か。官位は従五位上・筑後守。 経歴左大史を経て、天安2年(858年)清和天皇の即位に伴って行われた叙位で外従五位下に叙せられる。散位を経て翌天安3年(859年)因幡権介に任ぜられると、貞観4年(862年)因幡介、貞観6年(864年)出雲守、貞観12年(870年) 因幡介に再任されるなど、清和朝前半は山陰地方の地方官を歴任する。またこの間の、貞観11年(869年)には内位の従五位下に叙せられている。 のち、讃岐介を経て、貞観19年(877年)正月に従五位上に昇叙され、改元後の元慶元年12月には一族の良香・因雄・興道と共に、崇神天皇の後裔であり上毛野氏・大野氏ら朝臣姓の氏族と同祖であることを理由に、宿禰姓から朝臣姓に改姓している。 陽成朝では筑後守を務める。元慶4年(880年)には筑後国では30年以上に亘って班田が実施されていないことから、租税を納める元となる口分田がなく、租税を課されない名家の私有田ばかりがある状態で、調庸に欠損を来たし労役に動員できる人数も減少している、そのため豊後国の事例に倣って報符を待たずに班田を行うべき、との解を大宰府経由で太政官に提出し、認められている[1]。 元慶7年(883年)6月3日に筑後掾・藤原近成に唆された、前筑後掾・藤原武岡が率いる100名に迫る群盗に館を囲まれて、射殺された[2]。 官歴『日本三代実録』による。
脚注参考文献 |