逸見祥仙
逸見 祥仙(へんみ しょうせん)は、戦国時代の武将。小弓公方家の重臣[2]。実名は忠次(「清和源氏逸見系図」)[2]。 略歴甲斐武田氏庶流の一族とも[1]、真里谷氏の一族ともいわれるが、詳しい血縁関係などはわかっていない。官途名は左京亮であり、足利義明から山城守の受領名を与えられる[2]。甲斐の武田信虎と足利義明との間を媒介して両者を結びつける[2]。 天文7年(1538年)、第一次国府台合戦において義明と共に出陣して戦闘に参加したが、最後は義明と共に戦死した[1]。 脚注参考文献
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