連声海
連 声海(れん せいかい、繁体字: 連聲海; 簡体字: 连声海; 繁体字: 連聲海; 拼音: Lián Shēnghǎi; ウェード式: Lien Sheng-hai)は、中華民国の政治家。字が声海であり、本名は不明。 事績上海法政学校を卒業後に日本へ留学し、早稲田大学に入学した。1915年(民国4年)12月、中華革命党広東支部総務科科長に任命されている。翌1916年(民国5年・大正5年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[1]。 1917年(民国6年)に帰国し、同年11月に護法軍政府印鋳局局長となった。軍政府が改組されると、大理院刑庭書記官長に移っている。1923年(民国12年)3月に広東大元帥府秘書、1925年(民国14年)9月に広東省政府秘書処主任秘書、1926年(民国15年)1月に広州で民国政府秘書長と歴任した[2][3]。 同年11月、広州国民政府で交通部秘書長に起用され、翌1927年(民国16年)10月には南京国民政府で秘書長に抜擢された。1928年10月から1927年10月国民党中央特別委員会の事務局長として。1928年(民国17年)10月、鉄道部政務次長に移り、1931年(民国20年)6月からは鉄道部部長署理を半年間務めている。その後は全国経済委員会委員に転じ、1935年(民国24年)1月、立法院立法委員となり、後に中央政治委員会交通専門委員会委員も務めている。立法委員在任中の1947年(民国36年)に死去。享年63[2][3]。 注参考文献
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