足羽七城足羽七城(あすわななじょう)とは、南北朝時代に北朝方の越前守護・斯波高経が、南朝方との抗争の中で福井県福井市の九頭竜川・足羽川流域に構築した城塞群の総称。単に足羽城と呼ばれる場合もある。 概要後醍醐天皇に追われて九州に逃れた足利尊氏は、勢力を回復して東進し、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成を破り京都を奪還、光明天皇を擁立して北朝を成立させた。後醍醐天皇は比叡山に逃れ、後に吉野へ逃れて南朝を成立させる。後醍醐と共に比叡山に拠り尊氏と争っていた新田義貞は、越前国に下向して金ヶ崎城・杣山城を拠点として北朝方の斯波高経と争った[1]。 新田勢は平泉寺衆徒の加勢も得て延元3年/建武5年(1338年)2月の日野川の戦いで斯波勢を破り、越前国府(越前市)から小黒丸城(福井市)に敗走させた。破れた斯波高経は、小黒丸城を拠点として周辺に複数の城塞群を築き、新田方に対抗した[2]。軍記物『太平記』巻20-6「義貞黒丸に於て合戦の事」には、このとき高経が七つの城を構えたとある[3]。またこの他にも城塞群の総称として足羽城とよぶ記述が見える[4]。 七城の諸説この地域の当該時期に遡る城跡は、7ヶ所以上存在しており、どの城を「七城」に位置付けるかは諸説ある。 『日本城郭大系』11巻(1980年)は、福井藩主松平吉邦の命で享保5年(1720年)に編纂された『越前国古城跡并館屋敷蹟』(『城跡考』)の記載を引用し、 とする。また、松原信之による
とする説と、
とする説を挙げている[2]。 『福井の歴史散歩』(2010年) は
としている[5]。
その後新田義貞は、延元3年/建武5年(1338年)5月より足羽七城に対して大規模な攻勢をかけた。しかし閏7月2日の藤島の戦いで、藤島城に督戦に向かった際に敵軍に遭遇し燈明寺畷で戦死した。その後、弟の脇屋義助が主体となって戦闘を継続したが次第に衰え、暦応4年/興国2年(1341年)までに越前全域は斯波高経が掌握することとなった[1]。 脚注参考文献
関連項目外部リンク
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