赤松氏置
赤松 氏置(あかまつ うじおき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。名門守護大名・赤松氏の庶流七条氏の後裔。上総国下湯江陣屋を領した。対外的には石野氏を称した。 生涯幼少の頃は外祖父・有馬則頼に養育されていた[1]。元服後しばらくはかつての赤松氏嫡流に倣って義利と名乗った。 文禄元年(1592年)7月、則頼の紹介により名護屋城在陣中の徳川家康と対面し[1]、家康に召されて近習として仕え始めた[1]。文禄4年(1595年)、上総国天羽郡・周淮郡内に2150石余を得た[1]。関ヶ原の戦いでは斥候の役を務め、この功績によって伊豆国修善寺に1000石を賜った[1]。慶長6年(1601年)、御使番となる[1]。 慶長17年(1612年)、駿府において死去。享年39[1]。跡を嫡男・氏照が相続した。二男・氏信は徳川頼房(水戸藩)に仕えた[1]。 系譜脚注出典 |