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この項目では、播磨の赤松一族について説明しています。摂津の赤松一族については「有馬村秀」をご覧ください。 |
赤松 村秀(あかまつ むらひで)は、戦国時代の武将。播磨国龍野鶏籠山城主。
略歴
出自に関しては2通りの説がある。1つ目は明応2年(1493年)、播磨の守護大名である赤松政則の子として生まれるが、庶子であった[1]ために一族の支持を得られず家督相続することができなかったため、赤松家は娘婿の赤松義村が継ぐこととなり、塩屋城主・宇野政秀の養子となり[2]、後に政秀が龍野城を築城すると、その城主となったという物である。尚、義村からは偏諱(「村」の字)を賜っている。
2つ目は政則の子ではなく、龍野赤松氏の赤松則貞の実の孫であるという説で大永5年(1525年)には祖父の則貞を自ら龍野城内で殺害して龍野赤松氏を継承したという[3]。
村秀は、赤松本家の補佐に努め、小寺氏や宇野氏と協力し浦上氏との抗争に貢献し、天文9年(1540年)に死去。享年48。跡を子の政秀が継いだ。
脚注
- ^ 『赤松円心・満祐』吉川弘文館。306頁。
- ^ この説の場合は政則は生まれてすぐに村秀を政秀に託している。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。306頁。
- ^ 『鵤荘引付』
参考文献