作品は、しばらく前に黒ずんで汚れた状態でクリスティーズ社に持ち込まれた。その時、私はこの美しいジョルジョーネ的な絵画をフランチェスコ・ヴェチェッリオ(英語版)の初期の絵画だと想像した。その根拠として、色彩に関する印象と、ティツィアーノの技法についてのフランチェスコの知識を証立てているという印象があった。以後、絵画は洗浄されている。ふたたび、それを見た時、神聖な表現を使うなら、目からうろこが落ちた。どうして私は、この傑作を2流画家の作品だと勘違いしてしまったのであろうか。どうして目蓋の形、顎の構造、影の形が私にはわからなかったのであろうか。茶色の背景は (修復以前は) 輝く暖色の灰色になっていた。私が取るに足らないと思っていた手袋と毛皮 (の描写) は、巨匠の繊細な顔料を示していた。リネンの描写における「生地重ね」(pâte sur pâte) はティツィアーノの慣例であった。 作品は際立っていた。フランクフルトにある『頭部』のような単なる興味深い問題としてではなく、保存においてコブハム・ホール (Cobham Hall) の『キルトの袖をつけた男の肖像』(現在、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵) 、同時代かやや遅い時期の美しい『テンプル・ニューサムの肖像』 (Portrait of Temple Newsam) よりも優れた傑作として際立っていたのである[8]。
脚注
^It is called Portrait of a Young Man in Nichols, Tom, Titian and the End of the Venetian Renaissance, London: Reaktion Books, 2013, pp. 88-89. ISBN978 1 78023 186 0