贄持之子贄持之子(にえもつのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『書紀』では、苞苴担之子(にえもつのこ、にえもつがこ)と表記される。阿太の養鸕部の始祖(『古事記』では、「阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の祖(おや)」と記される)。 概要『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野村で大きな熊に出会い、突如疲れてしまい(『書紀』では神の毒気に当てられた、とある)、高倉下(たかくらじ)の持ってきた剣、佐士布都剣神(さじふつのかみ)によって救われた。さらに八咫烏の先導により吉野河の河尻(河口)、現在の五條市あたりへ入ったところで、
このあと、伊波礼毘古は井氷鹿、石押分之子と出会うわけなのだが、当該箇所は、『日本書紀』巻第三には、
と記されており、兄猾(えうかし)討伐の後の物語になっている。磐余彦(神武天皇)が菟田(うだ)の穿邑(うかちのむら)から吉野を見たいと望まれ、「親(みずか)ら軽兵(いささけきいくさ)を率ゐて、巡り幸(いでま)す[2]」と述べられている。国津神に出会う順番も、井光・磐排別之子の後に改変されている。 考証「贄」は神または天皇に供する貢納物(山野河海の食料品)の一種で、はじめは共同体の首長が神に貢納していたものが、地方首長の天皇への貢納物へと変化していった。天皇はそれらを口にすることで、その領有権を確認していた。「苞苴」とは、わらづと(わらなどを束ね、中に食品を包んだもの)、贈り物、みやげものを指す語であり、「にへもつのこ」で、「神や天皇に捧げる食物を持つ者という意味になる。 吉井巌が指摘するところでは、『古事記』における神武東征物語は、前半の主役は五瀬命であり、男建(おたけび)して紀国の男之水門で崩(かむあが)りした後の主役が伊波礼毘古命に変更されている、という。また、後半の大和平定の段では、久米氏が主催したと思われる大嘗祭の豊明節会で演じられた久米歌が歌われており、吉野の河尻で伊波礼毘古を出迎えた三柱の国津神も大嘗祭に奉仕する由縁を持った氏族の縁起談となっている、と西郷信綱は述べている。 その一方で、佐士布都剣神を高倉下に託したり、八咫烏を遣わしたりしたのは天照大御神と高木大神であり、古事記においても「天つ神の御子」と記されているように、大嘗祭以前の伝承・祖先譚・祭儀の要素も含まれている可能性も高い[3]。 『書紀』においては、当初から大和平定の主人公として機能している。 脚注参考文献
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