豊野篠原

 
豊野篠原
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
改名 篠原王→豊野篠原
官位 従五位下弾正弼
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇
氏族 豊野真人
父母 父:鈴鹿王
兄弟 出雲篠原尾張奄智五十戸
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豊野 篠原(とよの の しのはら)は、奈良時代皇族貴族。当初篠原王を名乗ったが、臣籍降下後の氏姓は豊野真人知太政官事鈴鹿王の子。官位従五位下弾正弼

経歴

天平勝宝5年(753年)三世王の蔭位により无位から従五位下に直叙される。天平宝字元年(757年)兄弟の出雲王尾張王奄智王猪名部王と共に豊野真人姓を与えられて臣籍降下する。

淳仁朝では、阿波国司大膳亮を歴任する。

天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらないが、翌天平神護元年(765年外衛中将神護景雲2年(768年)弾正弼と称徳朝では武官を務めた。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父・鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受けたが、この中に篠原は含まれておらず[1]、これまでに卒去したか。

宝亀4年(773年阿波国勝浦郡領・長費人立(ながのあたい ひとたつ)が、戸籍に関する篠原のかつての処理に対して以下異議を申し立てるが、太政官には認められなかった[2]

庚午年籍において、長直(ながのあたい)の戸籍について「直」を「費」と記されていたため、前郡領の長直救夫が訴え出て改めて「長直」と注記を行った。天平宝字2年(758年)阿波国司であった豊野篠原は、証拠となる記録がないことを理由に再び「長費」に戻してしまったため、本来の「長直」に戻してほしい。

官歴

続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 『続日本紀』神護景雲4年8月9日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀4年5月7日条

参考文献