譚浩明
譚 浩明(たん こうめい)は、清末民初の軍人・政治家。桂軍(広西軍、広西派)の指導者の1人で、陸栄廷を中心とする「旧広西派」(旧桂系)と呼ばれる集団の一員。陸の義弟(姉が陸の妻)に当たる。字は月波。チワン族(壮族)出身。 事跡旧桂系での台頭農業・水運を営む家庭に生まれ、譚浩明は青年期は家業を手伝っていた。その後、陸栄廷が譚の姉と結婚、清仏戦争以降は譚は陸に随従し、その下で順調に昇進していく。1911年(宣統3年)6月、陸が広西提督に昇進すると、譚は広西巡防営統領に任命され、南寧に駐屯した。 中華民国が成立し陸栄廷が広西都督兼民政長に就任すると、譚浩明は桂軍第2師師長に任命された。1913年(民国2年)7月に二次革命(第二革命)が勃発すると、譚は省内の革命派を鎮圧した。翌年7月、竜州鎮守使と広西辺防対汛督弁を兼任し、竜州に駐屯した。 1915年(民国4年)12月に袁世凱が皇帝に即位すると譚浩明は二等男に封じられた。しかし陸栄廷は袁に対する不満を抱いていたため、護国戦争(第三革命)勃発後の1916年(民国5年)3月15日に反袁独立を宣言した。譚もこれに従い、5月1日に両広護国軍都司令部が成立すると、譚は護国軍第5軍軍長に就任した。 6月6日に袁世凱が死去すると、陸栄廷は広東督軍竜済光を駆逐し、広東省の支配権を獲得した。1917年(民国6年)4月、陸が両広巡閲使に就任すると、譚は広西督軍に任命された。6月20日には、陸の指示の下で、広東督軍陳炳焜と共に「両広自主」を唱え、北京政府への対決姿勢を示した。 その後、譚浩明は陸栄廷から「粤桂聯軍総司令」に任命され、湖南省で発生していた各軍混戦に介入する。しかし、北京政府の呉佩孚軍に敗北してしまう。1918年(民国7根)6月には湖南省から撤退して、南寧に戻った。 再起、失脚湖南での敗北を教訓に、譚浩明は軍事改革に着手し、近代化を進めた。1918年(民国8年)1月には、広西陸軍講武堂を再興している。また、内政面でも積極的な施策を行い、広西綿業促進会を組織するなどした。しかしこちらは、技術力等の不足のため失敗に終わった。 1921年(民国10年)、一度は広東を追われた陸栄廷はその奪還を図り、譚もこれに与した。しかし、孫文は陳炯明に命じて広西へ先制攻撃を仕掛けた(「援桂」)。劉震寰、沈鴻英の寝返りもあって、陸の軍は大敗する。7月16日に、陸と譚は下野を表明して上海へ逃亡した。 1922年(民国11年)6月、孫文と陳炯明の内紛を衝き、陸栄廷と譚浩明は北京政府の援助も得て広西省に復帰した。しかし1924年(民国13年)、陸・譚は沈鴻英軍や李宗仁ら「新広西派」(新桂系)軍との戦いに敗れ、ここで完全に軍事的・政治的力量を喪失した。 譚浩明は上海に逃げ込み、隠棲した。1925年(民国14年)4月17日、自身の侍従副官により譚は自宅で暗殺されてしまった。副官の許婚者を譚が陵辱し、恨みを買ったためとされる。享年55(満53歳)。 参考文献
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