譚人鳳
譚 人鳳(たん じんほう)は清末民初の革命家。号は石屏。中国同盟会以来の革命派人士で、辛亥革命・第二革命(二次革命)・護国戦争(第三革命)・護法運動に参加した。 事跡清末の活動13歳で秀才となり、16歳で洪門(会党)の組織に加わる。日清戦争後、新学に接し、反清・革命の思想へと進むことになった。1903年(光緒29年)頃から地元で小学の校長をつとめる傍ら、革命のための秘密組織を結成している。しかし事が漏れたため、1906年(光緒32年)冬に日本へ亡命した。 日本では、黄興の紹介により中国同盟会に加入した。まもなく湖南に戻って蜂起を企むが失敗し、再び日本に戻り、法政学校[1]で学んだ。1908年(光緒34年)1月、安南(ベトナム)へ向かい、孫文(孫中山)の蜂起を支援したが、失敗に終わり、日本に戻っている。その後も、中国に戻って革命派組織の結集・連絡に従事し、広州での蜂起にも参画した。 辛亥革命での活躍1911年(宣統3年)6月より、湖北省で孫武・居正らの蜂起計画に参与した。また、上海にも赴いて、7月31日には宋教仁・陳其美らと同盟会中部総会を設立している。8月2日、譚人鳳は中部総会の総務会議議長に選出された。また、香港の黄興との連携も確立している。 同年10月10日、武昌起義が勃発すると、譚人鳳は直ちに漢口へ急行し、湖北軍政府の樹立に協力した。同月26日、譚はさらに湖南省に向かい、湖南軍政府に協力しようとする。ところが、湖南軍政府では革命派と立憲派の対立が激化し、立憲派の策動により都督焦達峰と副都督陳作新が殺害され、立憲派の譚延闓が新たに都督とされた[2]。譚人鳳は止むを得ず湖北に戻るが、湖北軍政府は漢陽を失うなど苦戦の最中であった。譚人鳳は武昌防禦使兼北面招討使として、革命派の軍を統率している。 11月30日、漢口で革命派の各省代表会議の第1回会議が開催された。譚人鳳は湖南省代表として出席し、あわせて議長に選出されている。12月3日、各省代表会議は臨時政府組織大綱を議決し、即日公布した[3]。 民初の活動中華民国成立後、譚人鳳は宋教仁から国民党参加を呼びかけられたが、政党を組織しての反袁世凱闘争に疑問を抱き、これには参加しなかった。1913年(民国2年)3月、宋が袁の刺客に殺害されると、譚は第二革命(二次革命)に参加したが、敗北して日本に亡命した。日本では、孫文の中華革命党と黄興の欧事研究会が組織され、双方が対立する事態となる。譚はいずれにも参加せず、両派の斡旋に心を砕いた。 1916年(民国5年)春、譚人鳳は帰国して護国戦争(第三革命)に参与し、漢口や山東省で活動した。1917年(民国6年)からの護法運動でも孫文を補佐して、主に広東省、福建省で構成員間の連絡に従事している。後に病気のため上海で静養することになった。 1920年(民国9年)4月24日、上海で病没。享年61。1935年(民国24年)7月、国民政府から陸軍上将位を追贈された。 没後、彼の遺児が北一輝に引き取られ北大輝として、彼の養子となり、育つ。 注参考文献
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